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緒方郁蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

緒方 郁蔵(おがた いくぞう、1814年文化11年) - 1871年8月24日明治4年7月9日[1])は、江戸時代後期の医師蘭学者は子文、号は研堂または独笑軒[2]

生涯

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1814年(文化11年)、備中国後月郡簗瀬村(現在の岡山県井原市)に大戸萬吉の長男として生まれる[3]。9歳の頃から山鳴大年のもとで漢籍を学び[4]、14歳の頃には江戸にて大年の養子・山鳴弘斎とともに昌谷精渓の塾で漢学を修める[5]。20歳の頃から坪井信道の塾で蘭書を学び、坪井塾では後に義兄弟となる緒方洪庵と出会う[5]1834年天保5年)には父の命により帰郷するも、1838年(天保9年)には大坂(現在の大阪市)に上り、洪庵が開いた蘭学の適塾に、弘斎とともに入塾。1844年弘化元年)、郁蔵は独立し独笑軒塾を開塾し、この頃から緒方姓を名乗り始める[6]1849年嘉永2年)には、大坂にて洪庵らとともに。除痘館を開設している[7]1852年(嘉永5年)11月には相撲見立大坂医師番付に初めて郁蔵の名が掲載される。以降、同番付には1863年文久3年)までの11年間で8回掲載されている[8]1858年には除痘館を退職し[9]、8年後の1866年慶應2年)には土佐藩が創設した開成館医局の教頭に任命され、同年9月に当時10歳の長男・緒方太郎、書生の安藤達平別所謙太郎僕弥助と共に土佐国(現在の高知県)に赴任している[10]1868年明治元年)、郁蔵は土佐藩より大坂在住を許され、翻訳家としての活動に専念することとなる[11]1869年(明治2年)1月、大坂仮病院の設立に携わり、医学伝習の御用掛に就任している[12]1871年8月24日(明治4年7月9日)、咽頭悪性腫瘍で死去。58歳没[1]

1919年(大正8年)、従五位を追贈された[13]

親族

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実家
  • 実父:大戸萬吉
  • 義弟:大戸三木造(萬吉の養子)
  • 実妹:大戸すみ(萬吉の五女、義弟・三木造の妻)
自家
  • 妻:エイ子(辰馬庄三郎の次女)
  • 長男:太郎(医師)
  • 長女:久重(道平の妻)
  • 次男:三郎(大阪造幣局技師)
  • 三男:四郎(医師)

脚注

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出典

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  1. ^ a b 『緒方郁蔵伝』82頁
  2. ^ 『緒方郁蔵伝』1頁
  3. ^ 『緒方郁蔵伝』3頁
  4. ^ 『緒方郁蔵伝』5頁
  5. ^ a b 『緒方郁蔵伝』7頁
  6. ^ 『緒方郁蔵伝』14頁
  7. ^ 『緒方郁蔵伝』34頁
  8. ^ 『緒方郁蔵伝』153頁
  9. ^ 『緒方郁蔵伝』154頁
  10. ^ 『緒方郁蔵伝』155頁
  11. ^ 『緒方郁蔵伝』156頁
  12. ^ 『緒方郁蔵伝』76頁
  13. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.48
  14. ^ 『緒方郁蔵伝』83頁

参考文献

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  • 古西義麿『緒方郁蔵伝 幕末蘭学者の生涯』(思文閣出版)