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緋縅力弥 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

緋縅 力弥(ひおどし りきや、緋縅力彌、明和9年(1772年) - 文政13年2月22日1830年3月16日))は、江戸時代大関安芸国山県郡川戸(現・広島県北広島町)出身。本名、森脇 勝五郎。身長177cm、体重116kg。

幕内生活21年という、驚異的な長期間の活躍が記録されている。上位陣にはあまり通じなかったが、下位には順当に取りこぼし少なく、かつ運良く1場所だけ大関に昇進した。引退後は「赤翁」と称し、養子であった錦幸太郎改め、2代目緋縅力弥(緋縅力弥)の活躍を楽しみとした。

成績

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  • 幕内在位:33場所
  • 幕内成績:147勝49敗92休13分5預15無
  • 大関在位:1場所
  • 大関成績:0勝0敗10休

場所別成績

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緋縅 力弥
春場所 冬場所
1794年 x 三段目
 
1795年 x 東幕下10枚目
6–3
1預
 
1796年 東幕下9枚目
4–5 
東幕下10枚目
0–0 
1797年 x x
1798年 x x
1799年 x x
1800年 東幕下2枚目
2–0
1預
 
x
1801年 東幕下2枚目
0–0 
x
1802年 西前頭3枚目
4–1–5 
西前頭8枚目
7–0–3 
1803年 東前頭6枚目
0–0–7 
東前頭4枚目
5–1–1
2分1預
 
1804年 番付非掲載
不出場
東前頭4枚目
6–2–1
1分
 
1805年 番付非掲載
不出場
番付非掲載
不出場
1806年 番付非掲載
不出場
番付非掲載
不出場
1807年 番付非掲載
不出場
東前頭2枚目
8–1
1預
 
1808年 東前頭筆頭
0–0–10 
東前頭2枚目
7–1–1
1分
 
1809年 東前頭筆頭
6–1–1
1分1無
 
東前頭2枚目
4–1–3
1預1無
 
1810年 東前頭筆頭
8–2 
東前頭2枚目
6–2–1
1分
 
1811年 東前頭筆頭
7–2–1 
東前頭2枚目
5–2–2
1預
 
1812年 番付非掲載
不出場
東前頭筆頭
5–2–1
2分
 
1813年 東小結
6–2–1
1分
 
東小結
5–1–1
2分1無
 
1814年 東関脇
0–0–10 
東大関
0–0–10 
1815年 番付非掲載
不出場
東関脇
6–2–1
1無
 
1816年 東関脇
5–2
1預
 
東小結
4–3–1
1分1無
 
1817年 東小結
4–3–2
1無
 
東前頭2枚目
6–2
1分1無
 
1818年 東小結
5–2–2
1無
 
東前頭筆頭
4–2–2
2無
 
1819年 西小結
4–1–5 
西小結
4–3–1
2無
 
1820年 西小結
2–1–3 
西前頭筆頭
6–2–1
1無
 
1821年 西前頭筆頭
5–3–2 
西前頭2枚目
3–2–3
2無
 
1822年 西前頭3枚目
引退
0–0–10
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。

改名歴

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  • 絹嶋
  • 増見山
  • 緋縅 力彌 - ? - 1802年2月場所
  • 緋縅 力弥 - 1802年11月場所 - 1818年10月場所
  • 緋縅 勝五郎 - 1819年3月場所 - 1822年1月場所

関連項目

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外部リンク

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