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綦忙古台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

綦 忙古台(き マングタイ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。益都府楽安県の出身。

生涯

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綦忙古台の父の綦公直は代々農業を生業としてきた一族の出であったが、武人としてモンゴルに仕えるようになった人物であった。綦忙古台も綦公直とともにモンゴル軍に従軍し、南宋領への侵攻時には梅関の攻撃を父より命じられている[1]

至元18年(1281年)5月、綦公直が中央アジアビシュバリクへの赴任を命じられた時、クビライは綦公直の長男の綦泰に万戸の地位を継承させようとしたが、綦公直は綦泰には郷里で老父の世話をさせたいと願い出たため、綦忙古台が万戸職を継承したと伝えられている。このころ、中央アジアではビシュバリクを含む天山ウイグル王国領が大元ウルスとカイドゥ・ウルスの最前線となっており、至元23年(1286年)にもカイドゥ軍が大挙して侵攻してきた(カラ・ホジョの戦い)。これに対し、大元ウルス軍を率いるバヤンは綦公直・李進ユワスらを率いて洪水山の戦いでカイドゥ軍を撃退することに成功したが、綦公直率いる部隊は追撃戦のさ中に突出して逆包囲を受けてしまった。包囲された綦公直軍は奮戦したものの綦公直の五男の綦瑗が戦死し、遂に綦公直とその妻、そして綦忙古台は捕虜となってしまった[2]

綦公直の末期については不明であるが、綦忙古台のみは逃れかえることに成功し、定遠大将軍・中侍衛親軍副都指揮使の地位を授けられ、後に湖州砲手軍匠万戸に転じて衢州の山賊を討伐する功績があった[3]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「襄陽既下、奉旨領鄧州・光化・唐州漢軍、及郢・復熟券軍九千二百人、従諸軍南伐。十二年冬、至隆興。……公直又令第三子忙古台攻梅関、破淮徳山寨、入広東、至南海、皆下之」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「十八年五月、陞輔国上将軍・都元帥・宣慰使、鎮別十八里。初、帝詔以長子泰襲万戸。公直自陳、父年老、乞以泰為楽安県尹、就養其父、制可、仍終身勿徙他職。至是、乃以忙古台襲万戸、佩金虎符、従之鎮。公直陛辞、曰『臣父喪五年、願葬以行』。帝許之。至家、葬事畢、遂計楽安税課及貧民逋負、悉以賜金代輸之、乃行。二十三年、諸王海都叛、侵別失八里、公直従丞相伯顔進戦於洪水山、敗之、追撃浸遠、援兵不至、第五子瑗力戦而死、公直与妻及忙古台倶陥焉」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「二十四年、忙古台奔還、授定遠大将軍・中侍衛親軍副都指揮使、改湖州砲手軍匠万戸。討衢州山賊、有功、加昭勇大将軍。泰後終於知寧海州」

参考文献

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  • 元史』巻165列伝52綦公直伝
  • 新元史』巻166列伝63綦公直伝