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綦公直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

綦 公直(き こうちょく、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。益都府楽安県の出身。

概要

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綦公直は代々農業を生業としてきた一族の出であった[1]至元5年(1268年)、益都勧農官となり、栽桑・養蚕のマニュアルを作成し数年で倍の成果を出うことに成功している[1]。至元9年(1272年)、沂・莒・膠・密・寧海五州都城池所千戸に任じられた。至元10年(1273年)、金符を下賜されて日本遠征の為に高麗で戦船を建造することを命じられた。この頃、南宋がモンゴル軍の侵攻を頑強に耐え続けており、綦公直の勇猛さを知ったクビライは綦公直を召見し、南宋戦線に投入した。綦公直は当初青草灘に向かったが霖雨に遭って玉泉山に移り、兵3千を率いて南宋軍を破る功績を挙げた。その後は襄陽城包囲戦に加わり、枢密院の命を受けて戦船・運船の建造を担った[2]

襄陽城が陥落すると鄧州・光化軍・唐州の諸軍を率いて南宋領の平定に従事した。至元12年(1275年)冬に隆興に至ると、南宋軍は城を出て戦いを仕掛けてきたが綦公直はこれを撃退し、その勢いのまま隆興府を投降に追い込んだ。これによって南安軍・吉州・贛州なども続々と投降し、600カ所にも及ぶ城柵を平定するに至った。その後、綦公直は三男の綦忙古台に命じて梅関を攻撃させ、自らは広東地方に入って遂に沿岸部まで至った。これらの功績により武毅将軍・管軍上千戸に任じられただけでなく、中央に召喚されると改めて昭勇大将軍・管軍万戸の地位を授けられた。またこの頃伯延伯答罕・禿忽魯らが西夏方面で叛乱を起こしたため、討伐を命じられている[3]

この頃、中央アジアではシリギの乱の勃発によって戦局が悪化しており、綦公直は至元17年(1280年)正月に中央アジアビシュバリクに赴任するよう命じられた[1][4][5]。しかし、綦公直はそれからすぐに出発せず、至元18年(1281年)5月に輔国上将軍・都元帥・宣慰使に昇格となった上で、同年7月に宣慰使の劉恩が率いる粛州の漢兵千人とともにビシュバリクに入った[4][6]。なおこの時、クビライは綦公直の長男の綦泰に万戸の地位を継承させようとしたが、綦公直は綦泰には郷里で老父の世話をさせたいと願い出たため、綦忙古台が万戸職を継承したと伝えられている。この頃、中央アジアではビシュバリクを含む天山ウイグル王国領が大元ウルスとカイドゥ・ウルスの最前線となっており、至元23年(1286年)にもカイドゥ軍が大挙して侵攻してきた(カラ・ホジョの戦い)。これに対し、大元ウルス軍を率いるバヤンは綦公直・李進ユワスらを率いて洪水山の戦いでカイドゥ軍を撃退することに成功したが、綦公直率いる部隊は追撃戦のさ中に突出して逆包囲を受けてしまった[7]。包囲された綦公直軍は奮戦したものの綦公直の五男の綦瑗が戦死し、遂に綦公直とその妻、そして綦忙古台は捕虜となってしまった[7][8]

綦公直の末期については不明であるが、綦忙古台のみは逃れかえることに成功し、定遠大将軍・中侍衛親軍副都指揮使の地位を授けられ、後に湖州砲手軍匠万戸に転じて衢州の山賊を討伐する功績があった[9]

脚注

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  1. ^ a b c 宮 2018, p. 340.
  2. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「綦公直、益都楽安人、世業農。至元五年、為益都勧農官。九年、為沂・莒・膠・密・寧海五州都城池所千戸。十年、賜金符、命造征日本戦船于高麗。時宋未下、世祖知其勇、遣使召見、俾与乎不烈抜都等領兵、同行荊南等処招討司事。抵峡州青草灘、霖雨、不進、還屯玉泉山。率兵三千攻安進下寨、破之、殺宋軍百餘人、獲牛馬七百。還至襄陽、枢密院命督造戦艦・運舟」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「襄陽既下、奉旨領鄧州・光化・唐州漢軍、及郢・復熟券軍九千二百人、従諸軍南伐。十二年冬、至隆興。宋軍突出城門逆戦、公直敗之、追抵城下、遂踰壕抜木、焚其楼櫓、斬首万餘級、生擒七百人、隆興降。由是南安・吉・贛皆望風款附、平堡柵六百餘所。公直又令第三子忙古台攻梅関、破淮徳山寨、入広東、至南海、皆下之。詔授公直武毅将軍・管軍上千戸。召入、加昭勇大将軍・管軍万戸、佩金虎符、領侍衛親軍。時伯延伯答罕・禿忽魯叛于西夏、命公直率軍討平之」
  4. ^ a b 安部 1955, p. 107.
  5. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元]十七年春正月……丙午、命万戸綦公直戍別失八里、賜鈔一万二千五百錠」
  6. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年]秋七月甲午朔、命万戸綦公直分宣慰使劉恩所将屯粛州漢兵千人、入別十八里、以嘗過西川兵百人為嚮導」
  7. ^ a b 安部 1955, p. 108.
  8. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「十八年五月、陞輔国上将軍・都元帥・宣慰使、鎮別十八里。初、帝詔以長子泰襲万戸。公直自陳、父年老、乞以泰為楽安県尹、就養其父、制可、仍終身勿徙他職。至是、乃以忙古台襲万戸、佩金虎符、従之鎮。公直陛辞、曰『臣父喪五年、願葬以行』。帝許之。至家、葬事畢、遂計楽安税課及貧民逋負、悉以賜金代輸之、乃行。二十三年、諸王海都叛、侵別失八里、公直従丞相伯顔進戦於洪水山、敗之、追撃浸遠、援兵不至、第五子瑗力戦而死、公直与妻及忙古台倶陥焉」
  9. ^ 『元史』巻165列伝52綦公直伝,「二十四年、忙古台奔還、授定遠大将軍・中侍衛親軍副都指揮使、改湖州砲手軍匠万戸。討衢州山賊、有功、加昭勇大将軍。泰後終於知寧海州」

参考文献

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  • 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻165列伝52綦公直伝
  • 新元史』巻166列伝63綦公直伝
  • 山右金石志』巻21綦公元帥先塋之碑