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米沢与三七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年明治12年)8月1日[1] - 1966年昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる[2][3]

経歴・人物

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富山県に生まれる[4]1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる[4]。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した[3][4]1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した[3][4]。1958年(昭和33年)藍綬褒章を受章[1]

脚注

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  1. ^ a b 『人事興信録 第23版 下』人事興信所、1966年、よ100頁。
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『米沢与三七』 - コトバンク
  3. ^ a b c 電子情報通信学会『知識の森』、14群(歴史・年表・資料)、3編 電子情報通信人名録、2019年3月11日閲覧。
  4. ^ a b c d 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『米沢 与三七』 - コトバンク