米村理
ノースアジア大学 監督 | |
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東京ドームにて(2016年) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県桜井市 |
生年月日 | 1959年4月3日(65歳) |
身長 体重 |
184 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト3位 |
初出場 | 1980年11月8日 |
最終出場 | 1987年10月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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米村 理(よねむら おさむ、1959年4月3日 - )は、奈良県桜井市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。
来歴・人物
[編集]奈良県立郡山高等学校では、1977年春季近畿大会に進むが、1回戦で伊香高の藤高俊彦に抑えられ惜敗。同年夏も県予選で敗れ甲子園には出場できなかった。県内の同期には甲子園へ出場した智弁学園・山口哲治、天理高・鈴木康友がいて、後に楽天では鈴木とは一軍コーチ、山口は球団スタッフとして同じチームで日本一を経験した。
1977年のドラフト会議で、阪急ブレーブスから3位指名を受けて入団。強打の一塁手として期待されたが、当時の加藤英司、ウェイン・ケージといったレギュラーの陰に隠れ、二軍暮らしが長かった。
1983年には一軍に定着、主に代打、守備固めとして起用される。同年はブーマー・ウェルズの控えながら、一塁手としても8試合に先発出場を果たした。
1986年には定評のある打撃を活かし、指名打者、一塁手として16試合に先発。最終戦では三番打者としても起用され打率.329の好記録を残す。
1987年のシーズン中盤以降は出場機会が減少。
1988年限りで現役引退。
引退後の1988年11月、球団がオリックスに売却され、後継球団であるオリックスのマネジャーに転身。
1991年に二軍打撃コーチとして現場に復帰すると、2010年に退団[1]するまで、20年にわたって打撃コーチやトレーニング、外野守備走塁コーチを歴任した。
2011年に横浜ベイスターズで一軍外野守備走塁コーチを務めた[2]。同年11月22日に来季の契約を結ばないことが発表された[3]。
2012年に東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍した。二軍外野守備走塁コーチを経て2012年2月に新設ポストの一軍野手強化コーチに異動[4]。
2013年から一軍外野守備走塁コーチを務め、同年のリーグ優勝・日本一に貢献した[5]。
2014年は61試合で外野守備失策がリーグワースト2位の6を記録し守備の乱れから敗戦につながる試合もあり[6]、同年6月17日付で二軍野手コーチに転じた[7]。
2016年からは一軍外野守備走塁コーチ。
2017年からは一軍・二軍巡回外野守備走塁コーチ。10月22日、球団から退団が発表された。楽天コーチ時代指導した島内宏明は「打てない時もずっと励ましてくれたから頑張れた。ヨネさんがいなければ、ここまで来られなかった」と述べている[5]。10月29日、オリックス・バファローズに8年ぶりに戻り二軍チーフ兼打撃コーチに就任することが発表された。背番号は86[8]。
2019年9月28日、オリックスは米村から退団の申し出があり、受理することになったと発表した[9]。
2020年7月、ノースアジア大学明桜高校のコーチに就任した[10]。2023年秋季よりノースアジア大学監督に就任。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1980 | 阪急 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1981 | 15 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .200 | .000 | .200 | |
1983 | 91 | 70 | 63 | 9 | 20 | 2 | 1 | 3 | 33 | 16 | 0 | 0 | 4 | 1 | 2 | 0 | 0 | 11 | 4 | .317 | .333 | .524 | .857 | |
1984 | 68 | 17 | 14 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | .071 | .235 | .071 | .307 | |
1985 | 20 | 9 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | .167 | .375 | .167 | .542 | |
1986 | 45 | 82 | 73 | 7 | 24 | 3 | 0 | 3 | 36 | 11 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 16 | 2 | .329 | .402 | .493 | .896 | |
1987 | 41 | 46 | 42 | 2 | 8 | 1 | 0 | 1 | 12 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 3 | .190 | .244 | .286 | .530 | |
NPB:7年 | 281 | 230 | 203 | 22 | 54 | 6 | 1 | 7 | 83 | 29 | 1 | 1 | 6 | 1 | 19 | 0 | 1 | 38 | 9 | .266 | .330 | .409 | .739 |
記録
[編集]- 初出場:1980年11月8日、対近鉄バファローズ前期13回戦(藤井寺球場)、6回裏に松井満に代わり三塁手として出場
- 初安打・初打点:1983年5月12日、対西武ライオンズ6回戦(平和台野球場)、7回裏に小林誠二から中前適時打
- 初本塁打:同上、9回裏に小林誠二から左越2ラン
- 初先発出場:1983年5月14日、対南海ホークス5回戦(阪急西宮球場)、7番・一塁で先発出場
背番号
[編集]- 45 (1978年 - 1988年)
- 78 (1991年 - 2010年)
- 86 (2011年、2018年 - 2019年)
- 76 (2012年 - 2017年)
脚注
[編集]- ^ “コーチ人事について”. オリックス・バファローズ (2010年10月8日). 2011年11月28日閲覧。
- ^ “2012年度 監督・コーチ契約について”. 横浜ベイスターズ (2011年11月22日). 2011年11月28日閲覧。
- ^ “横浜:尾花監督2年目で解任、「来季も戦いたかった」”. カナロコ (2011年11月22日). 2011年11月22日閲覧。
- ^ “コーチの役職変更に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年11月22日). 2014年6月18日閲覧。
- ^ a b “<楽天>米村コーチ退団 若手に寄り添い6年間、信念貫き仙台去る”. 河北新報. (2017年11月3日) 2017年11月3日閲覧。
- ^ “楽天最下位脱出へコーチ配置転換”. 日刊スポーツ (2014年6月18日). 2014年6月18日閲覧。
- ^ “コーチの役職変更に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2014年6月17日). 2014年6月18日閲覧。
- ^ 新コーチングスタッフ決定のお知らせ オリックス・バファローズ公式サイト
- ^ オリックス米村理2軍チーフコーチ兼打撃コーチが退団 申し出の受理を発表 full-count、2019年9月28日
- ^ “明桜高校野球部コーチに米村理氏が就任” (pdf). ノースアジア大学明桜高等学校 (2020年7月28日). 2021年4月3日閲覧。