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米川正夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米川 正夫
1949年
人物情報
生誕 (1891-11-15) 1891年11月15日
日本の旗 日本岡山県高梁町
死没 (1965-12-29) 1965年12月29日(74歳没)
食道癌
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京外国語学校
配偶者 米川蔦子(前妻)
米川多佳子(後妻)
子供 米川哲夫(三男:ロシア文学研究者)
米川和夫(四男:ロシア文学研究者)
米川良夫(イタリア文学研究者)
学問
時代 大正昭和
研究分野 ロシア文学
研究機関 善隣外事専門学校
早稲田大学
主な業績 ロシア文学の翻訳
主な受賞歴 読売文学賞
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米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本ロシア文学者翻訳家

経歴

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1891年、岡山県高梁町質屋を営む家庭に四男として生まれ育つ。高梁中学校時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊し、この雑誌で翻訳を始める。1912年、東京外国語学校を首席で卒業。

卒業後、鉄道省の採用試験を受験するも失敗。しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社し、長崎支店に勤務。同年11月から旭川第七師団のロシア語教師として北海道に赴任する。ドストエーフスキイ白痴」翻訳に着手、1914年、処女出版として新潮文庫(第1次)から刊行開始(1917年に第1次新潮文庫の刊行が途絶したため「白痴」も第4巻で途絶した)。1916年に第七師団を辞任、同年の大晦日に上京。

1917年、大蔵省に入省。10月に朝鮮からシベリア経由で渡露し、ペトログラードに駐在。その地で十月革命に遭遇した。1918年、ロシア国内戦の拡大に伴う生活危機により帰国。同年6月に大蔵省を退職し、横浜のロシア領事館に通訳として勤務。同年10月にロシア領事館を退職し、翌月からシベリア購買組合の神戸支店に勤務。神戸で2年間を過ごす。

1920年12月、陸軍大学校のロシア語教官として勤務するため、東京に戻る。1927年、十月革命十周年を迎えたソ連から招待を受け、同年10月、ソ連になってからは初めての訪問を果たす。1929年31年、盟友・白葉と企画した『トルストイ全集』を岩波書店から刊行。1934年から明治大学でも講師を務めた(1939年まで)。1935年罪と罰』を翻訳(三笠書房刊)し、ドストエーフスキイの後期5大長編(他4編は『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)をすべて訳了。

1941年ショーロホフ静かなドン』の翻訳発表の可否について内務省検閲課に相談したことが問題視され、4月「依願退官」の形で陸軍大学校教授を事実上解雇される。その約1ヵ月後、かつて自宅に下宿させていた青年ミハエル・コーガン麻雀賭博罪で逮捕されたため、その巻き添えにより米川もまた同罪で逮捕された上、ソ連のスパイ容疑者として警視庁原宿署の取調べを受けるも11日間で釈放された。同年、河出書房から個人訳『ドストエーフスキイ全集』(第1次)を刊行し始めるも、紙不足や情報局の統制のため、1943年、第4巻をもって刊行中止となる。

1943年善隣外事専門学校にロシア語講師として勤務。翌年夏、胃潰瘍の診断を受け、自宅療養しながら仕事を続けた。1945年3月、空襲を逃れて東京西荻窪の自宅から北軽井沢の別荘に疎開。太平洋戦争敗戦後、同年暮から東京に戻る。

1946年4月、10年ぶりに再建された早稲田大学文学部露文科に岡沢秀虎教授の懇望で迎えられ、講師に就任(同月、善隣外事専門学校を辞職)。1948年、吐血する事態となり手術を受け、胃の3分の2を切除した。1951年、早大文学部教授に昇進。1953年国際ペンクラブ大会に出席するためヨーロッパを歴訪し、ソ連も再訪した。戦後の翻訳としては、1946年12月~52年、個人全訳で創元社『トルストイ全集』(全23巻)を刊行。51年~53年、41年から心血を注いできた河出書房版・個人全訳『ドストエーフスキイ全集』全18巻(第3次)刊行。ようやく完結にこぎつけた。

1961年1962年にもソ連を訪問。1962年、早稲田大学を定年退官した。1964年食道癌と診断され、1965年12月に死去した。享年74。

米川は『ドストエーフスキイ全集』完結後も全集の追補とするべく、未訳資料の翻訳を進めており、最後の入院中も原書を離さず、「罪と罰」創作ノートの翻訳が遺稿となった。1966年1月の葬儀を葬儀委員長として取り仕切ったのは、終生の友・中村白葉であった。

受賞・栄典

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研究内容・業績

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翻訳者として最初期から終生関わり続けたドストエーフスキイをはじめ、トルストイなど、19世紀から20世紀にわたる膨大なロシア・ソビエト文学を翻訳、翻訳界において同時代に活躍した白葉や原久一郎(原を含め3人とも外語出身者)と並び称され、近代日本におけるロシア文学受容史に欠かせない人物の一人である。

米川とドストエーフスキイ

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先述通り、米川の翻訳処女出版は1914年、ドストエーフスキイ『白痴』であり、その後『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』と翻訳を進め、1935年『罪と罰』を翻訳して、ドストエーフスキイ後期5大長編をすべて訳了する。上記の『罪と罰』は三笠書房で企画されたドストエーフスキイ全集に翻訳陣の一人として招かれた際に担当して新訳したものであったが、1941年、陸大退官後の米川は次の仕事を必要としたことと、翻訳に専念する時間をとれるようにもなったことなどから、個人全訳での『ドストエーフスキイ全集』翻訳を企画、岩波書店に企画をもちこみ、出版契約がまとまる。だが戦時体制が強化される中、全集出版のための用紙が確保できず、計画は中止せざるをえなくなった。しかしほぼ時を経ずして、計画の頓挫を聞きつけた河出書房が版元に名乗りをあげ(社長・河出孝雄自らが出版させてほしいと米川に申し入れたという)、新たに河出書房と契約を締結する。こうして全30巻(別巻1)の予定で、同年12月、全集刊行が開始される。この全集のために米川は『貧しき人々』『虐げられし人々』などを新訳している。しかし1943年、戦意昂揚の出版物刊行が最優先される状況下で全集刊行の続行は困難となり、13冊を刊行した時点で出版計画は中止が決定される。ただ米川は、刊行途絶の後も個人的に『作家の日記』翻訳を続けており、再起しての全集完成に向けた彼の情熱を窺い知れる。『作家の日記』翻訳は北軽井沢での疎開生活でも続けられて、終戦を迎えた。

『作家の日記』を米川がほぼ訳了した1945年10月、河出書房が戦後版全集の刊行を申し入れ、翌46年6月、米川2度目のドストエーフスキイ全集の刊行が開始される。戦後の深刻な物資不足は紙も例外ではなく、終戦後爆発的に高まった書籍需要への対応が追いつかない状態で、米川版第2全集も初回版と比べて1冊あたり約半分の厚さ、また紙質もかなり質を落としての刊行を余儀なくされ、全50巻予定で刊行が始まっていた。この全集の際に米川はドストエーフスキイの全創作作品を訳了、刊行を果たした。ただし発刊当初は好評に推移していた売行きも、刊行が長期化する中、物資不足が立ち直りをみせ、1950年代に入って用紙、造本ともに上質な書籍が増加したことで、第2全集は採算が覚束なくなり、43冊を刊行した時点で、「書簡集」などを残して1951年4月にまたも続刊中止のやむなきに至った。

しかし河出書房も同年のうちにすぐさま新全集を企画、上質紙を確保、豪華な装幀に変更して、1951年8月、改めて米川個人全訳による第3次ドストエーフスキイ全集を刊行開始する。今回は1巻あたりのページ数を第2全集の倍以上に増やして全18巻での企画であり、1953年9月に完結。戦前からの米川の執念が漸く結実し、それまでの翻訳人生の集大成をここで一旦果たすこととなった。

人物・交遊関係

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多趣味であり、異母長姉・貞(米川暉寿)に中学時代からの手ほどきを受け(別項の通り兄弟には筝曲家が多い)、筝曲演奏を趣味とした。三味線(三絃)、尺八も嗜み、1938年から同郷の内田百閒と共に素人の琴三絃の会「桑原会」(そうげんかい)を主宰した。この会には顧問として妹・文子と宮城道雄がおり、会員として葛原しげる田辺尚雄渥美清太郎藤田俊一大倉喜七郎徳川義親町田嘉章などがいた(1950年目白・徳川義親邸内小講堂での演奏会が最後)。謡曲も玄人はだしで、これら古典芸能に幅広く精通、他に麻雀も終生の趣味であり、翻訳で一時代を築く一方、余暇には幅広い趣味を楽しんだ人物でもあった。

家族・親族

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  • 異母長姉:米川暉寿(てるじゅ)は箏曲家。
    • 異母長姉・貞は暉寿(てるじゅ)の芸名を名乗る盲目の筝曲家。
  • 次兄:米川親敏(のち米川琴翁と改名)も箏曲家。親敏の娘の米川敏子も箏曲家で人間国宝。敏子の娘の米川裕枝も箏曲家で、二代目米川敏子となった。親敏の息子の恭男(のち二代目米川親敏となる)も箏曲家。
  • 末妹の米川文子も箏曲家で人間国宝。三兄である清の娘の米川操(のち二代目米川文子となる)も箏曲家で人間国宝である。
  • 前妻:米川蔦子
    • 1915年、従妹の蔦子夫人と結婚。のち5人の息子をもうけるが、1923年に次男、1930年に長男が病気で夭逝、1940年には夫人も病死している。夫人の死の翌年の41年、後半生の伴侶となった15歳下の隆(多佳子)夫人を後妻に迎えている(隆夫人も前夫が病没しており、再婚同士であった)。
  • 後妻:米川多佳子(1906-87)は、東京女子高等師範学校を卒業。戦後、永福町の米川宅に若い知識人が集まり、「米川サロン」の風情があったという[1]
  • 三男:米川哲夫1925年-2020年)は東京外国語学校露語科を経て東京大学史学科卒、ロシア文学者・ロシア近代史家で東京大学名誉教授
  • 四男:米川和夫1929年-1982年)は善隣外事専門学校露語科を経て早大露文卒、ロシア文学者・ポーランド文学者で明治大学教授
  • 五男の米川良夫1931年-2006年)は早大仏文卒、イタリア文学者で國學院大學教授を務めた。
               
           (先妻)
             ┃
             ┃  ┏貞(暉寿)
             ┣━━┫   
             ┃  ┗駒  
             ┃  
          米川常太郎 ┏菊枝
             ┃  ┃  
             ┃  ┣速水
             ┃  ┃         ┏━敏子━━━裕枝(二代目敏子)  
             ┣━━╋親敏(のち琴翁)━┫    
             ┃  ┃         ┗━恭男(二代目親敏)
             ┃  ┣竹恵(7歳で早世)
             ┃  ┃
            利喜   ┣清━━━━操(二代目文子) 
                ┃ 
                ┃    ┏常夫(15歳で早世)
                ┃    ┃
                ┃    ┣文男(2歳で早世)
                      ┃     ┃ 
                    ┣正夫━━╋哲夫       
                ┃    ┃ 
                ┃    ┣和夫  
                ┃    ┃
                ┃    ┗良夫
                ┃ 
                ┗文子(初代)                  


訳書

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著書

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  • 『ペートル』三省堂 1932
  • 『ロシア文学思潮』三省堂 1932
  • 『酒・音楽・思出』河出書房 1940
  • 編『簡易露語教程』三省堂 1940
  • 『ロシヤ文学点描』穂高書房 1947
  • 『ロシヤ文学史』穂高書房 1947 / 角川文庫 1954 改版1970
  • 『トルストイの文学』実業之日本社・教養叢書 1951
  • 『ドストエーフスキイ入門』河出書房・市民文庫 1951
  • 『ソヴェート紀行』角川書店 1954
  • 『ドストエーフスキイ研究』河出書房 1956
  • 『鈍・根・才-米川正夫自伝』河出書房新社 1962

脚注

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  1. ^ 粕谷一希『二十歳にして心朽ちたり』、中村稔『日の匂い』

外部リンク

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