ミハエル・コーガン
ミハエル・コーガン[注釈 1](ウクライナ語: Михайло Коган, 英語: Michael Kogan、1920年1月1日 - 1984年2月5日)は、ユダヤ系ウクライナ人の実業家、タイトー創業者[1]。
経歴
[編集]極東のユダヤ人
[編集]1920年1月、ウクライナのオデッサにて、建設会社の経営者の6人兄弟の末子として生まれる[1]。1932年、ロシア革命の混乱を避けるため満洲のハルビンに移住し、地元の商業高校を卒業する[1]。
1938年にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニスト青年団の1人として参加し、ハルビン特務機関長・樋口季一郎、大連特務機関長・安江仙弘に出会う。
「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となったコーガンは、翌1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ[1]。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫の家に下宿し、ドストエフスキーの著作の翻訳を手伝った。
来日後の事業
[編集]1944年、コーガンは上海から天津に渡って貿易実務を取得した。1946年からは貿易商となり、翌47年には結婚した[1]。1950年[注釈 2]に再び来日。「太東洋行」という個人営業の輸入会社を始め、世田谷の仮住まいで雑貨の輸入業を営んだ。「太東」とは、極「東」と猶「太」人、すなわち「極東のユダヤ人」の意であり、みずからの民族的出自を示している。1953年に一度仕切りなおして株式会社太東貿易を創業、これが後のタイトーとなる。なお太東貿易以後の企業概要についてはタイトーを参照。
1954年、シベリアに抑留され病死した安江の葬儀の開催に尽力する。4月26日、青山斎場で行なわれた安江大佐の慰霊祭は、平凡社の下中弥三郎社長を委員長として執行された。駐日イスラエル公使、在日ユダヤ人協会長、陸士21期生代表など多数が参列した。
1984年、出張中にアメリカ合衆国のロサンゼルスで心臓発作により死去[1]。64歳だった[1]。
タイトーが経営するゲームセンターで使われるメダルゲーム用の「メダル」には、コーガンの肖像が描かれているものが長く使われていた(近年は「インベーダー柄」のものが使われていることが多い)。
息子のアブラハム(愛称アバ[1])はモナコに住んでいる。娘のリタは南カリフォルニアに住んでおり、リチャード・エドランドと結婚した。彼女はタイトーが2006年にスクウェア・エニックスの完全子会社になるまで、同社の株式を8.5%所有していた[2]。なお、コーガンの妻が2013年に死去した後、海外財産分の相続税110億円を滞納していることが発覚する[3]。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- タイトー社史編集委員会 『遊びづくり四十年のあゆみ』(株)タイトー、1993年
- 中日新聞社社会部編 『自由への逃走』東京新聞出版局、1995年 ISBN 4-8083-0526-7
- 武田徹 『偽満州国』河出書房新社、1995年 ISBN 4-309222-84-6
- 赤木真澄『それは「ポン」から始まった』アミューズメント通信社、ISBN 4-9902512-0-2 C3076
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “追悼 ミハイル・コーガンシシ”. ゲームマシン (233): pp. 31-33. (1984年4月1日) 2021年7月17日閲覧。
- ^ “公開買付けの結果及び子会社の異動に関するお知らせ”. スクウェア・エニックス (2005年9月22日). 2021年3月12日閲覧。
- ^ 村上潤治; 水沢健一 (2015年2月27日). “タイトー創業者親族、相続税110億円滞納 海外財産分”. 朝日新聞. オリジナルの2015年3月2日時点におけるアーカイブ。 2015年3月5日閲覧。