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築港大潮湯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯34度39分05秒 東経135度25分55秒 / 北緯34.6514286度 東経135.4319262度 / 34.6514286; 135.4319262

築港大潮湯
施設情報
開園 1914年8月
閉園 1934年9月
所在地 大阪府大阪市港区築港2丁目
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築港大潮湯(ちっこうおおしおゆ)はかつて大阪府大阪市港区に存在した娯楽施設。

概要

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1914年大正3年)8月、元大工である森口留吉によって築港大桟橋の東南に建てられた。温泉と海水プールを中心とした総合娯楽施設。

この付近には以前、海浜院「天保山遊園」があったが、築港大桟橋の建設に伴い、1902年明治35年)に閉鎖されていた[1]第一次世界大戦の不況の最中であるが、豊臣秀吉を尊敬する森口は乾坤一擲で施設を建築した。1914年10月には隣に新館として築港花壇を増設する。

広さは3300平方メートル、30馬力のモーターで1日200万リットルの海水を汲み上げ、滝として落とすプール、清水・塩水・温泉の三種類の浴槽があり、 巨大な滝のあるプールや劇場、新館には百畳敷きの大広間や入浴客の休憩室まで備えていた[2]

開園当初の入場料は大人30銭、子供15銭であったが、1926年大正15年)の段階で夏季以外は大人20銭、子供10銭の低価格に変わった[3]

築港大潮湯があったとされる築港二丁目付近

開館後の経過

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1919年大正8年)に、「陸上安全大海水浴場」が増築された。オープン8年後の1922年(大正11年)には創業時の借財をすべて返済、債権者を新館に招いて宴を実施した。

1923年大正12年)9月の関東大震災発生後、關一大阪市長の要請により被災者の受け入れ・収容施設として無料開放されるとともに、新館を貸事務所として寄付した。しかし、1926年(大正15年)に神戸の「松田汽船」に売却される。

1934年昭和9年) 9月、室戸台風高潮被害により、オープンから20年で閉鎖となった[4]

閉館後

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第二次世界大戦中、捕虜の収容所となる[5]

2019年1月時点では、一般財団法人大阪港湾福利厚生協会の築二住宅が跡地に所在する[要出典]

施設

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旧館

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1914年(大正3年)8月建設

新館

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新館には、以下の施設があり、無料で利用できた[6]

  • 大広間(260畳)舞台付き 1室
  • 大広間(100畳以上) 2室
  • 大広間(88畳) 2室
  • 10畳以上の部屋 15室
  • 10畳以下の部屋 60室
  • 休憩所(50畳) 4か所
  • 運動場(350坪) 1か所

陸上安全大海水浴場施設

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1919年(大正8年)建設のプール。背景にペンキ富士山白砂青松の風景が描かれていた。組み上げた海水を勢いをつけて滝として流し落としていた[7]

当時の絵葉書

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脚注

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  1. ^ 築港大道路(現みなと通)開通。築港大桟橋完成。大阪市電開通”. 大阪市. 2019年1月19日閲覧。
  2. ^ 橋爪紳也『大阪モダン -通天閣と新世界-』NTT出版、1996年7月23日、117-118頁。ISBN 4-87188-623-9 
  3. ^ 橋爪紳也『人生は博覧会日本ランカイ屋列伝』晶文社、2001年5月30日、208-210頁。ISBN 4-7949-6489-7 
  4. ^ 1914(大正3)年 築港大潮湯開業”. 大阪市. 2019年1月19日閲覧。
  5. ^ 1914(大正3)年 築港大潮湯開業”. 大阪市. 2019年1月19日閲覧。
  6. ^ 出版者不明『[絵はがき]大阪名所絵葉書 2』出版者不明、1921年、1頁。 
  7. ^ 橋爪紳也『人生は博覧会日本ランカイ屋列伝』晶文社、2001年5月30日、208頁。ISBN 4-7949-6489-7