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筒井慶之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

筒井 慶之(つつい よしゆき、生年不詳 - 慶長20年5月12日1615年6月8日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将通称は藤六郎。官位従五位下紀伊守。父は福住順弘。兄に定慶

略歴

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慈明寺順国の子・定次筒井順慶の養子になった際に、兄・定慶とともに順慶の養子になったとされる[1]天正12年(1584年)に順慶が死去すると筒井氏の家督は定次が継いだが、天正13年(1585年)に定次は伊賀へと転封される[1]。それにともない定慶と慶之は一度は伊賀に赴くものの、再び大和へと戻った[1]

慶長19年(1614年)3月上旬、兄とともに徳川家康に召し出され、郡山城代に任じられる[1]。兄弟は1万石の知行と200石の与力36人を与えられ、さらに定慶は従五位下主殿頭に、慶之は従五位下紀伊守に叙任されている[1]

慶長20年(1615年)4月26日、豊臣方の軍勢が郡山城を攻撃[2]。敵の大軍との戦いを避け一旦福住に退く案を出す定慶に対して、慶之は郡山城での戦いを主張したが、城兵の戦意が失せていたのを受け、慶之は興福寺妙喜院へと逃れた[3]。定慶もその後城を出て福住へと落ち延びる[4]。5月10日、定慶は順慶から拝領していた筒井家伝来の刀「筒井丸」を慶之に与えた後に自害[4]。5月12日に慶之も切腹した[5]。享年25[4][注釈 1]

なお、慶之の名は『和州諸将軍伝』に現れるが、徳川家康に取り立てられたのを「主殿」一人とする説(『大和記』)や、慶之が受領したとされる紀伊守を主殿頭が受け取ったとする説(『和州郡山領主之次第』)などがあり、慶之の存在は確かではない[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ これによると天正19年(1591年)の生まれとなり、前半生の経歴とは矛盾する。

脚注

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  1. ^ a b c d e 籔 1985, p. 220.
  2. ^ 籔 1985, p. 221.
  3. ^ 籔 1985, pp. 222–223.
  4. ^ a b c 籔 1985, p. 223.
  5. ^ 新日本古典籍総合データベース『和州諸将軍伝』(筑波大学附属図書館所蔵、356コマ
  6. ^ 籔 1985, pp. 223–224.

参考文献

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  • 籔景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年。ISBN 4-404-01281-0