第17師管
第17師管(だいじゅうしちしかん)は、1907年から1925年まであった日本陸軍の管区で、当時全国に18置かれた師管の一つである。岡山に司令部を置いた第17師団が管轄した。1907年の6個師団増設で設置され、1925年の宇垣軍縮で廃止された。
第17師団と第17師管
[編集]師管は同じ番号の師団のための徴兵と密接に結びついており、第17師団の兵士は第17師管に戸籍を持つ男子から徴集された。また、第17師管から徴兵された兵士は第17師団に入るのが原則であったが、これにはいくつか例外がある。まず、独自の師管を持たない近衛師団には、全国の師管から兵士が送られた。第17師管でのはじめての徴兵となる1908年(明治41年)を例にとると、第17師管から徴兵される現役兵は、第17師団に4857人、近衛師団に49人を配分する計画であった[1]。さらに1915年(大正4年)に朝鮮に置かれた2個師団は、自らの師管を持たなかったので、内地の師管から兵卒を送られた。1918年(大正7年)に同様な例をとると、第17師団へ3169人、近衛師団へ86人、第20師団へ862人が配分される計画であった[2]。
師管はまた、師団が地域防衛・治安維持に責任を負う範囲でもある。しかし、この時代には国内での反乱の可能性はなくなり、外国軍による日本本土への上陸攻撃も考えにくくなっていた。
区域の変遷
[編集]岡山県の大部分、広島県の東部、鳥取県の西部、島根県の全部 (1907 - 1917)
[編集]1907年、陸軍が6個師団を増設を決めると、明治40年軍令陸第3号(9月17日制定、18日公布、施行は後日)による陸軍管区表改定で、師管の区割りも変更された。第17師管はこのとき設けられた。区域は岡山県のうち備前国・備中国にあたる地域(美作国を除く)、広島県のうち備後国にあたる地域、鳥取県の西部2郡(西伯郡・日野郡)、そして島根県の全部の4県にまたがった[3]。
岡山県の大部分、広島県の東部、鳥取県の西部、島根県の全部、愛媛県の一部 (1917 - 1920)
[編集]1917年、大正4年軍令陸第10号(9月13日制定、14日公布)により陸軍管区表が改定された。第10師管から岡山県美作国の久米郡を、第11師管から愛媛県の東部3郡(宇摩郡・新居郡・周桑郡)を譲られた。連隊区の間にも境界変更があったが、所属は変わらなかった[4]。
岡山県の大部分、広島県の東部、鳥取県の西部、島根県の全部 (1920 - 1925)
[編集]1920年、大正9年軍令陸第10号(8月7日制定、10日施行)により陸軍管区表が改定された。愛媛県の3郡と広島県の双三郡は第5師管に譲り、第10師管から美作国のうちさらに3郡(苫田郡・勝田郡・真庭郡)を得た。これにより、美作5郡のうち英田郡を除く4郡が第17師管に属した。このときも連隊区間の境界変更があったが、所属変更や廃止などはなかった[5]。
1924年、大正13年軍令陸第5号(5月5日制定、7日公布)による陸軍管区表改定で、旅管が廃止された。区割りは変更せず、旅管がなくなっただけである[6]。
廃止
[編集]1925年の宇垣軍縮で、陸軍は4個師団を削減し、第17師団もその対象になった。大正14年軍令陸第2号(4月6日制定、8日公布、5月1日施行)で、第17師管は廃止された。旧第17師管は第10師管と第5師管によって東西に分割された。岡山県と鳥取県の部分は第10師管に、広島県の部分は第5師管になり、島根県は出雲国の東半分と隠岐島が第10師管に、それより西が第5師管になった[7]
脚注
[編集]- ^ 陸軍省『弐大日記』明治41年4月(陸軍省大日記)、1908年4月、「現役兵補充兵配賦の件」。
- ^ 陸軍省『密大日記』第1冊(大正7年)、「現役兵補充兵配賦の件」。
- ^ 『官報』第7268号(明治40年9月18日)。
- ^ 『官報』第936号(大正4年9月14日)。『公文類聚』第39編第14巻、「陸軍管区表中ヲ改正ス」。
- ^ 『官報』第2406号(大正9年8月9日)。
- ^ 『官報』第3509号(大正13年5月7日)。
- ^ 『官報』第3785号(大正14年4月8日)。
参考文献
[編集]- 『公文類聚』国立公文書館デジタルアーカイブを閲覧。
- 『官報』。国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧。
- 陸軍省『弐大日記』(陸軍省大日記)。国立公文書館アジア歴史資料センターを閲覧。
- 陸軍省『密大日記』大正6年(4冊の内1)、国立公文書館アジア歴史資料センターを閲覧。