第二次イゾンツォの戦い
第二次イゾンツォの戦い | |
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第十一次までのイゾンツォの戦いの戦況図 | |
戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1915年7月18日 - 8月3日 | |
場所:イタリア北東部のイゾンツォ川付近 | |
結果:イタリア軍の戦略的辛勝 | |
交戦勢力 | |
イタリア王国 | オーストリア=ハンガリー帝国 |
指導者・指揮官 | |
ルイージ・カドルナ アオスタ公エマヌエーレ・フィリベルト |
フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ スヴェトザル・ボロイェヴィッチ |
戦力 | |
240個大隊、火砲840門 | 130個大隊、火砲420門 |
損害 | |
戦死傷者60,000人 | 戦死傷者45,000人 |
第二次イゾンツォの戦い(イタリア語:Seconda battaglia dell'Isonzo, ドイツ語:Zweite Isonzoschlacht)は、第一次世界大戦中のイタリア戦線で、1915年7月18日から8月3日にかけて、イタリア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の間で戦われた会戦である。
戦闘前
[編集]2週間前の第一次イゾンツォの戦いにおける失敗の後、イタリア軍の総司令官ルイージ・カドルナは、増強した砲兵の支援のもと、オーストリア軍戦線に対して新たな攻撃を加えることを決定した。
カドルナの採った戦術は単純で、つまりは前回そうであったように粗雑なものであった。イタリア軍はオーストリア軍の塹壕の正面に陣取り、鉄条網を制圧した後に敵陣に乗り込むという計画である。イタリア軍はオーストリア軍に数で勝っていたものの、部隊に行き渡るだけの鉄条網用のカッターを持っておらず、機動力が制限されることとなった。
戦闘
[編集]イタリア第2軍と第3軍が攻勢をかけたカルスト高地(特にネッロ山)では、死力を尽くした白兵戦が繰り広げられ、双方に甚大な損害を出した。この恐ろしい混戦の中では、銃剣、サーベル、ナイフ、それに様々な金属片やがらくたまでもが戦闘に用いられた。ハンガリー第20師団は、その将兵の3分の2までを失い壊滅、師団は後送された。
7月25日に入り、イタリア軍はサン・ミケーレ山 (it:Monte San Michele) を占領した。これはそれほど急峻な山ではなかったが、かなり広い地域を制圧できる制高点(高所のため広い地域を視認でき、火砲を管制してその地域を制圧できる点)だった。オーストリア軍はリヒター大佐が指揮する数個の精鋭からなる連隊を送り込み、奪還のため必死の反撃を行ったが無駄に終わった。
イタリア、オーストリア両軍が弾薬を射耗したため戦闘は終わった。3週間の戦闘で90,000人もの将兵が戦死した。
他の戦闘
[編集]- 第一次イゾンツォの戦い - 1915年6月23日 - 7月7日
- 第三次イゾンツォの戦い - 1915年10月18日 - 11月3日
- 第四次イゾンツォの戦い - 1915年11月10日 - 12月2日
- 第五次イゾンツォの戦い - 1916年3月9日 - 3月17日
- 第六次イゾンツォの戦い - 1916年8月6日 - 8月17日
- 第七次イゾンツォの戦い - 1916年9月14日 - 9月17日
- 第八次イゾンツォの戦い - 1916年10月10日 - 10月12日
- 第九次イゾンツォの戦い - 1916年11月1日 - 11月4日
- 第十次イゾンツォの戦い - 1917年3月12日 - 6月8日
- 第十一次イゾンツォの戦い - 1917年8月19日 - 9月12日
- カポレットの戦い - 1917年10月24日 - 11月9日(第一二次イゾンツォの戦いとも言う)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- The Second Battle of the Isonzo, 1915 at FirstWorldWar.com
- FirstWorldWar.Com: The Battles of the Isonzo, 1915-17
- Battlefield Maps: Italian Front
- 11 battles at the Isonzo
- The Walks of Peace in the Soča Region Foundationイゾンツォ川沿いの戦跡を保存する財団のページ
- The Kobarid Museum
- Društvo Soška Fronta
- Pro Hereditate - extensive site