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第三十九号型水雷艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第三十九号型水雷艇
第42号水雷艇
艦級概観
艦種 水雷艇
艦名 番号
前級 隼型水雷艇
白鷹
次級 第六十七号型水雷艇
要目
排水量 常備:110トン
全長 垂線間長:46.81m (153ft 7in)
全幅 4.65m (15ft 3in)
吃水 1.07m (3ft 6in)
機関 ヤーロー式水管2基
直立式3気筒3段膨張レシプロ1基
1軸、2,000馬力
速力 27ノット
航続距離
燃料 石炭:36トン(満載)
乗員
兵装 5.7cm山内単装速射砲1基[1]
36cm水上魚雷発射管
旋回式2門、固定式1門
同型艦 10隻

第三十九号型水雷艇(だいさんじゅうきゅうごうがたすいらいてい、旧字体:第三十九號型水雷艇)は、日本海軍の二等水雷艇。同型艇10隻。ヤーロー型。

概要

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1896年(明治29年)度計画の第1期拡張計画のうちヤーロー社発注の10隻。そのころ出現した水雷艇駆逐艦(後に駆逐艦に発展)に対抗するために排水量は当初予定の80トンから110トンまで増大した。

戦歴

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日露戦争では水雷艇隊の一員として各艇は参加した。旅順攻略の最終段階で、旅順に残る艦艇のほとんどが陸上からの砲撃により着底擱座し、最後に戦艦セヴァストーポリ(Sevastopol)が残った。同艦は砲撃を巧みに避けて港外に逃れた。そして港口の西側に錨を入れ防雷網を設置、陸上砲台と砲艦1隻、駆逐艦2隻に守られた。この戦艦を攻撃するために1904年(明治37年)12月9日から水雷艇隊の夜襲が雪の中で行われた。翌10日は風が強く攻撃は中止されたが11日から5夜連続で攻撃に当たった。最後となる15日夜は激しい風雪の中で攻撃が決行され、この攻撃でセヴァストーポリの艦尾に魚雷2本が命中、浸水により航行不能となり戦闘能力を喪失、ようやく目的を達した。この一連の攻撃で第42号とその他1隻(第50号型の53号)が戦没し合わせて35名の戦死者を出している。

日本海海戦の夜戦にも各艇参加、この時このクラスで戦没した艇は無かった。残った9隻は1913年(大正2年)と1916年(大正5年)に除籍された。

同型艦

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建造は全てヤーロー社。組立は横須賀=横須賀海軍造船廠、佐世保=佐世保海軍造船廠

  • 第39号 : 1901年(明治34年)2月18日竣工(ヤーロー/横須賀)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第40号 : 1901年(明治34年)3月4日竣工(ヤーロー/横須賀)。1913年(大正2年)4月1日除籍。母港:佐世保(最終時)、6月12日売却訓令、11月1日4,555円で売却報告[2]
  • 第41号 : 1901年(明治34年)3月7日竣工(ヤーロー/横須賀)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第42号 : 1901年(明治34年)4月29日竣工(ヤーロー/横須賀)。1904年(明治37年)12月15日戦没。
  • 第43号 : 1901年(明治34年)4月29日竣工(ヤーロー/横須賀)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第62号 : 1902年(明治35年)3月16日竣工(ヤーロー/佐世保)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第63号 : 1902年(明治35年)2月26日竣工(ヤーロー/佐世保)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第64号 : 1902年(明治35年)3月25日竣工(ヤーロー/佐世保)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第65号 : 1902年(明治35年)3月15日竣工(ヤーロー/佐世保)。1913年(大正2年)4月1日除籍。
  • 第66号 : 1902年(明治35年)4月1日竣工(ヤーロー/佐世保)。1916年(大正5年)7月1日除籍。

脚注

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  1. ^ 『日本駆逐艦物語』によると5.7cm砲2門。
  2. ^ #T2公文備考22/亡失、売却及撤去、処分(3)画像49-50、大正2年11月1日佐鎮第17号の91。

参考文献

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