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竹腰成方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
竹腰成方
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年5月15日1614年6月22日[1]
死没 貞享5年2月21日1688年3月22日
改名 源太郎(幼名)、正好、信良、成方、可謙、霜閑(号)
別名 三信
戒名 龍雲寺殿大安三信嗣法老居士
墓所 愛知県常滑市榎戸の龍雲寺
官位 従五位下出雲守
主君 徳川義直
美濃国今尾
氏族 竹腰氏
父母 竹腰正信大久保忠隣養女・春
兄弟 成方正晴正辰石川正光継室
石川加左衛門娘・お寅
源一郎、小寅
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竹腰 成方(たけのこし しげかた)は、江戸時代前期の美濃国今尾領主・竹腰家の一門。官位従五位下出雲守。槍の達人。徳川義直の甥。

略歴

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尾張藩御附家老美濃国今尾領主・竹腰正信の長男として駿府にて誕生した。母は大久保忠隣の養女(孫)の春。お七夜に徳川家康に抱かれ源太郎と命名され、脇差と羽織を賜る。寛永8年(1631年元服時、大膳正好と名乗る。以後、信良(叙任時)、成方、可謙、三信と改名する。

竹腰家の嫡男であり、寛永10年(1633年)、知行地4000石を賜り、常滑村に住する。翌寛永11年(1634年)、従五位下・出雲守に叙任され、信良と改名する。寛永14年(1637年)、江戸に出て翌年名古屋に帰る。帰ったのち、前年に起こった味鋺村(現在の名古屋市北区)の水争いにおける水奉行に対する処断で藩主徳川義直と対立し、不仲となり登城する機会が減る。寛永16年(1639年)6月には病と称し、常滑村庄屋の衣川八兵衛宅に引き籠った。

正保2年(1645年)、父が没すると家督は弟の正晴に譲り、高野山で出家、霜閑と号する。翌正保3年(1646年)、藩主より合力米2000俵と屋敷を賜り、旧領のうち200石を本家に返還している。正保4年(1647年)、瀬木村に新居を建築し移る。慶安元年(1648年)、藩主より三徳備える人物として評され、三信の名を賜る。寛文6年(1666年)、渥美半島・田原湾岸に石塚新田を開拓する。法名は龍雲寺殿大安三信嗣法老居士。墓所は榎戸村(愛知県常滑市榎戸)の龍雲寺。

系譜

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  • 父:竹腰正信(1591年 - 1645年)
  • 母:春 - 大久保忠隣の養女(孫)
  • 正室:なし
  • 側室:お寅 - 石川加左衛門(三河国菱地村郷士)の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:源一郎 - 夭折
    • 女子:小寅 - 石川九太夫の養女

脚注

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  1. ^ 『尾張群書系図部集』