竹腰成方
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長19年5月15日(1614年6月22日)[1] |
死没 | 貞享5年2月21日(1688年3月22日) |
改名 | 源太郎(幼名)、正好、信良、成方、可謙、霜閑(号) |
別名 | 三信 |
戒名 | 龍雲寺殿大安三信嗣法老居士 |
墓所 | 愛知県常滑市榎戸の龍雲寺 |
官位 | 従五位下・出雲守 |
主君 | 徳川義直 |
藩 | 美濃国今尾領 |
氏族 | 竹腰氏 |
父母 | 竹腰正信、大久保忠隣養女・春 |
兄弟 | 成方、正晴、正辰、石川正光継室 |
妻 | 石川加左衛門娘・お寅 |
子 | 源一郎、小寅 |
竹腰 成方(たけのこし しげかた)は、江戸時代前期の美濃国今尾領主・竹腰家の一門。官位は従五位下・出雲守。槍の達人。徳川義直の甥。
略歴
[編集]尾張藩御附家老、美濃国今尾領主・竹腰正信の長男として駿府にて誕生した。母は大久保忠隣の養女(孫)の春。お七夜に徳川家康に抱かれ源太郎と命名され、脇差と羽織を賜る。寛永8年(1631年)元服時、大膳正好と名乗る。以後、信良(叙任時)、成方、可謙、三信と改名する。
竹腰家の嫡男であり、寛永10年(1633年)、知行地4000石を賜り、常滑村に住する。翌寛永11年(1634年)、従五位下・出雲守に叙任され、信良と改名する。寛永14年(1637年)、江戸に出て翌年名古屋に帰る。帰ったのち、前年に起こった味鋺村(現在の名古屋市北区)の水争いにおける水奉行に対する処断で藩主徳川義直と対立し、不仲となり登城する機会が減る。寛永16年(1639年)6月には病と称し、常滑村庄屋の衣川八兵衛宅に引き籠った。
正保2年(1645年)、父が没すると家督は弟の正晴に譲り、高野山で出家、霜閑と号する。翌正保3年(1646年)、藩主より合力米2000俵と屋敷を賜り、旧領のうち200石を本家に返還している。正保4年(1647年)、瀬木村に新居を建築し移る。慶安元年(1648年)、藩主より三徳備える人物として評され、三信の名を賜る。寛文6年(1666年)、渥美半島・田原湾岸に石塚新田を開拓する。法名は龍雲寺殿大安三信嗣法老居士。墓所は榎戸村(愛知県常滑市榎戸)の龍雲寺。
系譜
[編集]- 父:竹腰正信(1591年 - 1645年)
- 母:春 - 大久保忠隣の養女(孫)
- 正室:なし
- 側室:お寅 - 石川加左衛門(三河国菱地村郷士)の娘
- 生母不明の子女
- 男子:源一郎 - 夭折
- 女子:小寅 - 石川九太夫の養女
脚注
[編集]- ^ 『尾張群書系図部集』