竹売
竹売(たけうり)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の行商人である[1]。なかでも、山科家を本所とし竹を貢納および販売する者、およびその身分を竹供御人(たけくごにん)といい、同家に属した散所にあって竹を販売する者を竹売散所者・竹うり散所者(たけうりさんじょもの)という[1]。江戸時代(17世紀 - 19世紀)に、切った篠竹(メダケ)を行商した者も「竹売」と呼んだ[2]。
略歴・概要
[編集]室町時代(14世紀 - 16世紀)、当時の経済流通・交通の変化・発展を受け、農民が自ら伐採した竹を売る「竹売」に進出する例もあったが、京都においては、山城国宇治郡山科荘(現在の京都市山科区)の山科家を本所とした「竹供御人」が、供御人として朝廷に竹を貢納し、独占的に販売していた[1]。山科家の「竹供御人」は、
の2か所に存在した[1]。1481年(文明13年)には、深草と木幡の「竹供御人」どうしがその利権を争い、結果的には「伏見ハひさしき供御人、小幡ハちかし」(「伏見の深草は古来の供御人であり、木幡は最近のものである」の意)と判定された記録が残っている[1]。このほか「山科散所」の者たちも、竹うり散所者(竹売散所者)として、「竹売」を行った[1]。当時、掃部助・大沢重有が差配していた、この「竹売散所」の所在地は不明である[3]。同時期、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、材木を売る「材木売」とともに「竹売」として紹介されている[1][4]
江戸時代の江戸(現在の東京都)で、切った篠竹(メダケ)を、「タケヤ」を連呼しながら売り歩いた行商人も、「竹売」と呼ばれていた[2]。店を構えた者は「竹屋」と呼ばれた[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『江戸時代の職人尽彫物絵の研究 - 長崎市松ノ森神社所蔵』、小山田了三・本村猛能・角和博・大塚清吾、東京電機大学出版局、1996年3月 ISBN 4501614307
- 『散所・声聞師・舞々の研究』、世界人権問題研究センター、思文閣、2004年12月 ISBN 4784212191