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竹売

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠竹(メダケ)。

竹売(たけうり)は、中世12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の行商人である[1]。なかでも、山科家本所としを貢納および販売する者、およびその身分を竹供御人(たけくごにん)といい、同家に属した散所にあって竹を販売する者を竹売散所者竹うり散所者(たけうりさんじょもの)という[1]江戸時代17世紀 - 19世紀)に、切った篠竹(メダケ)を行商した者も「竹売」と呼んだ[2]

略歴・概要

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室町時代14世紀 - 16世紀)、当時の経済流通・交通の変化・発展を受け、農民が自ら伐採した竹を売る「竹売」に進出する例もあったが、京都においては、山城国宇治郡山科荘(現在の京都市山科区)の山科家を本所とした「竹供御人」が、供御人として朝廷に竹を貢納し、独占的に販売していた[1]。山科家の「竹供御人」は、

の2か所に存在した[1]。1481年(文明13年)には、深草と木幡の「竹供御人」どうしがその利権を争い、結果的には「伏見ハひさしき供御人、小幡ハちかし」(「伏見の深草は古来の供御人であり、木幡は最近のものである」の意)と判定された記録が残っている[1]。このほか「山科散所」の者たちも、竹うり散所者(竹売散所者)として、「竹売」を行った[1]。当時、掃部助・大沢重有が差配していた、この「竹売散所」の所在地は不明である[3]。同時期、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、材木を売る「材木売」とともに「竹売」として紹介されている[1][4]

江戸時代の江戸(現在の東京都)で、切った篠竹(メダケ)を、「タケヤ」を連呼しながら売り歩いた行商人も、「竹売」と呼ばれていた[2]。店を構えた者は「竹屋」と呼ばれた[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 竹売世界大百科事典 第2版コトバンク、2012年8月29日閲覧。
  2. ^ a b 竹売、江戸年中行事&風俗、2012年8月29日閲覧。
  3. ^ 世界人権、p.220-221.
  4. ^ 小山田ほか、p.142.
  5. ^ 大辞林 第三版『竹屋』 - コトバンク、2012年8月29日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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