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薦野増時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立花増時から転送)
 
薦野増時
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文12年(1543年
死没 元和9年2月10日1623年3月10日
改名 薦野弥十郎→増時→立花増時
別名 号:玄賀→賢賀
戒名 円珠院来翁玄賀
墓所 福岡県古賀市養徳山
福岡県新宮町立花山梅岳寺
官位 左近大夫三河守
主君 大友宗麟道雪宗茂黒田長政
氏族 薦野氏多治氏)→立花氏黒田氏
父母 父:薦野宗鎮(鎮房)
母:米多比元実[1]の娘[2]
兄弟 増時丹親次(半左衛門、薦野勘解由鎮方)
継室:米多比鎮久女
立花成家[3]増利[4]重時[5]増重[6]
増弘重興(重直)立花統貞
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薦野 増時(こもの ますとき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将立花氏家老を務めて後に「立花三河守」の名乗りを許された。のち黒田氏の家臣となり黒田姓を与えられた。

生涯

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薦野氏筑前国糟屋郡薦野[7]国人領主[8][9]。祖先は継体天皇の末裔である多治氏であるという[10][11]。『筑後将士軍談』によると、継体天皇の子・左大臣家憲が初めて丹治の名を賜り、嵯峨天皇の時代に家憲の末孫・丹治宮内卿家義が大和国渋田荘を賜った。その孫・武延は陽成天皇の時代に武蔵国加治郡に移住し武蔵七党の祖となった。一方家義の子・峯延は筑前国薦野に住み、薦野を名字としたという。

天文12年(1543年)、薦野宗鎮[12]の嫡男として誕生。薦野氏は代々宗像氏や大友・立花氏に仕えてきた。 永禄4年(1561年)3月、大友軍立花鑑載、怒留湯直方ら1千五百兵を率いて宗像氏貞の領地に攻め込む、14日に増時の奮戦によって占部尚安の許斐里城を落としたが、翌15日吉原里城にて激しい反撃を受け、撤退した[13]

永禄10年(1567年)9月5日、宗像氏貞が立花山城へ侵攻、飯盛山[14]にて佈陣した[15]。立花鑑載と怒留湯直方は席内村、旦ノ原一帯で迎撃し、逆に宗像領の赤間山城まで攻め込んだ。しかし、宗像家臣の吉田守致怒留湯久則と一騎打ちをして、吉田の勝ちにより宗像軍の士気が高まり、今度は宗像軍の反撃が始まった。7日、増時と一族の米多比鎮久らは自分の領地にて宗像軍の侵攻をしぶとく抵抗した[16][17]

永禄11年(1568年)に立花鑑載大友氏に叛旗を翻した際、これに反対した増時の父・宗鎮と米多比直知[18]が鑑載に謀殺され、薦野・米多比一族の討伐に安武民部・藤木和泉守ら八百を差し向けてきた。これに対し増時と米多比鎮久は三百の兵で迎え討ち、西郷原で立花方を撃退した。 その後薦野一族は、御笠郡に布陣している大友家の臼杵鑑速の軍と合流して立花家と戦った。鑑載が大友家に討伐された後、大友宗麟の命で戸次鑑連立花山城に入り「立花道雪」と名乗ると、増時は鎮久と共にその与力として配された。

宗鎮と増時父子は「属大友家、戦功多くて感状数十通あり」、特に増時は「冷静沈着にして勇猛果断」で文武に秀でた人物であったため、道雪の家臣団以外、大友氏からの与力として、譜代の由布惟信や同じく大友氏の与力出身の小野鎮幸と並んで家政を預かった。道雪の副将・軍師・参謀の一人として天正年間筑前において対秋月種実原田隆種筑紫広門宗像氏貞らとの戦闘にほとんど参加し、その軍略と武勇を遺憾なく発揮され、

天正7年(1579年)7月12日-18日第二次生松原の戦い・第一次鳥飼の戦い[19]

7月27日第一次太宰府観世音寺の戦い[20][21]

8月18日-9月初旬多々良浜・箱崎・上松城の戦い[22][23][24]

9月下旬第四次生松原の戦い・高祖山城攻防戦[25][26][27][28]

12月26日-29日糟屋郡攻防・許斐岳城奇襲戦[29]

天正9年(1581年)7月27日第二次太宰府観世音寺・第二次太宰府石坂の戦い(太宰府市・石坂)[30][31][32][33]

8月25日高鳥居城攻略戦[34][35]

11月6日第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原合戦・第二次八木山石坂の戦い[36]

11月13日小金原・清水原・山東宗像表合戦・毛利鎮実鷹取城兵糧救援[37]

天正10年(1582年)4月16日岩戸の戦い[38]

天正11年(1583年)3月16日宗像領吉原口防戦[39]

天正14年(1586年)8月25日高鳥居城攻略戦[40]など、数十通の感状をもらった。

立花氏の家宰

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道雪は増時の才能を愛し、養子に迎えて家督を譲ろうとした。だが、これに真っ先に反対したのは他ならぬ増時本人であったとされる。増時は、現在の立花氏の家中は道雪に対しては絶対的な忠節を誇るものの、内実は様々な出身者による寄合所帯であり、安易な家督相続は道雪の死後に内紛を引き起こす、としてこれを諌めたのである。やがて、道雪と増時は高橋統虎を道雪の養子に迎えることに決め、統虎との養子縁組を実現させると、増時はその補佐にあたるようになった[41]

天正12年付の道雪から増時への書状の中で道雪は、「高野山清泰院」という聖の処遇について意見を述べており、こうした遍歴する人々の語る情報がいかに危ういかを見抜いていた。「確かな情報はなかなか得られないが、怪しげな情報は決して信じてはならない。これが乱世を生き抜く術だ」と書き遺している[42][43]

天正13年(1585年)、島津氏の北上の最中に道雪が病死し、統虎が名を「立花宗茂」と改めて立花氏の家督を継いだ。増時は引き続き宗茂に仕え、各地を転戦するだけでなく、島津氏や豊臣秀吉との交渉にも当った。十時連貞と共に島津側の策略で捕虜になった宗茂の弟の高橋統増の返還を実現させた事など[44]、長年の忠義を評された増時は、立花の姓を名乗ることを許され[45]、息子の吉右衛門成家(立花成家)の正室には宗茂の実姉の甲斐が配される事となった[46]

豊臣秀吉の九州平定後、宗茂が筑後国柳河城に移封されると、増時は支城である同国三潴郡城島城(現在の久留米市)に4千石を与えられた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際に、増時は徳川家康率いる東軍の勝利と判断して、親徳川派の加藤清正黒田如水との同盟を進言した[47]。しかし宗茂や他の重臣は、「太閤殿下の御恩」を主張して西軍への参加を決定してしまい、増時は柳河城の留守を命じられた。増時の子の成家が大津城の戦いで一番乗りする活躍をするも、西軍は敗戦、宗茂は増時の弟である丹親次を家康への交渉役として上方に残すと、柳河城へと帰還した。立花軍は柳河城に籠城し、城を鍋島・黒田・加藤らの軍に攻められている最中、家康から得た身上安堵の御朱印を携えて丹親次が帰還した。宗茂はこれを提示して黒田・加藤等と和睦交渉した後、柳河城を開城した。

福岡藩士時代

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立花氏の改易が決まると、同家の家臣は他家に仕える者、宗茂に従う者など離散する事となった。増時は黒田如水から仕官を勧められる。新たに黒田氏が拝領した自分の故郷・筑前への帰国を希望していた増時は、旧主・道雪が眠る梅岳寺[48]の墓守をすることを希望した。そこで如水は増時の息子に父の旧知行と同じ4千石を授け、これとは別に、増時自身にも隠居料200人扶持が与えられる事となった。以後、増時の系統は福岡藩家臣・立花黒田氏として黒田氏に仕え続けて、かつての主君の立花宗茂が再び柳川藩に封じられた後も、立花氏に復帰することはなかった。(黒田(立花薦野丹治)家文書に記載。)

元和9年(1623年)、死去。享年81。道雪の生前に恩賞として得た許しに随って、梅岳寺の道雪墓所の隣に葬られた。福岡藩の重臣で文人として名高い立花実山は曾孫にあたるという。

外部リンク

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脚注

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  1. ^ 次郎左衛門、主計頭、越中守。米多比鎮久の祖父。
  2. ^ 米多比鎮久の父・米多比直知(大学助、弾正忠鎮家)の姉。
  3. ^ 弥助、吉右衛門、子に正重
  4. ^ 金右衛門
  5. ^ 甚兵衛、子に増成
  6. ^ 弥兵衛、子に重種立花実山の父)。
  7. ^ 現在の福岡県古賀市
  8. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十五節 柳川人物小伝(五)薦野増時 926~927頁
  9. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二二) 薦野増時小傳 P.257頁
  10. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.40
  11. ^ 『筑後國史・筑後将士軍談』卷之第三十 系譜小傳 第二 立花家臣系譜 P.24~25
  12. ^ 美濃守、河内守、三河守、鎮房、浄円日芳。
  13. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.55、P.71
  14. ^ 今の福岡県福津市南東、古賀市北西の飯盛山。
  15. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.59
  16. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.171
  17. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.50~55、P.72
  18. ^ 米多比鎮久の父。大学助、弾正忠、鎮家。「丹治姓米多比氏略系」によると、永祿七年(1564年)に米多比直知が立花鑑載の大友氏に対する拳兵に加担しなかったために鑑載から謀殺されたとする。大友宗麟と吉弘鑑理から直知の子・まだ幼名米王丸と称する鎮久への書状に、「親父戦死之次第」という内容からみると、既に永祿七年に戦死した可能性がある。
  19. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 二 戸次道雪感状 去十八於鳥飼村、御被官東郷三九郎砕手分捕之由候、感悅無極候、彼方之儀、毎々勵粉骨之由候、心懸之次第難盡紙面候、連々増時無御油断故候、必可達上聞候、為愚老以時分何樣賀之可身上候、恐々謹言、七月廿八日 薦野左近大夫殿(増時) P.225。
  20. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
  21. ^ 吉永正春『筑前戦国史』観世音寺の戦い p.119
  22. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一六)筑前箱崎 天正七年 八月日未詳 P.10
  23. ^ 『筑後将士軍談』卷之第十二 立花道雪與宗像等合戦付麻生生害之事 P.317~318
  24. ^ 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  25. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
  26. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月 P.11
  27. ^ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
  28. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
  29. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96
  30. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.87~88
  31. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一九)筑前観世音寺口 天正九年 七月二十七日 P.11
  32. ^ 『柳河享保八年藩士系図・上』竹迫 P.168
  33. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一 戸次道雪感状 昨日廿七宰府於観世音寺口、増時僕従神五・吉徳砕手被疵之由候、感悅無極候、必可達上聞候、為愚老以時分何樣賀之可申候、恐々謹言、七月廿八日 薦野左近大夫殿(増時) P.225
  34. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (48) 戸次道雪書状写 猶々、其元無油断勤番肝要候、一、昨日者早々越山、乍案中祝着候、併真労不及申候、其地江無易儀候哉、殊高鳥居へ責被合候由、肝要候、陣所等之儀、増時被得指南可然様可申談候、仍廣重事昨日同心候哉、心懸之次第悦喜申候、各着陣候ハ、、爰許へも用事多有之儀候間、廣重事者早々帰陣肝要候、恐々謹言、九月三日、 後藤市彌太(連種)殿 P.565。
  35. ^ 『高鍋町史』 附年表
  36. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一四 戸次道雪・立花統虎(宗茂)連署感状 前之六日穂波潤野原合戦之刻、増時最前依被砕御手、御家中歴々分捕高名、感悅候、銘々以状申候、為御存知候、尖奉達上聞候之条、御感不可有余儀候、必配當砌何樣顕志可申候、恐々謹言、十一月十一日 薦野三河守殿(増時) P.229。
  37. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 五 戸次道雪・立花統虎(宗茂)連署感状 前之十三於清水原合戦之刻、別而被砕御手、深川九郎被討捕、御高名次第、珍重候、尖奉達(平出)上聞候之条、御感不可有余儀候、殊御被官歴々或分捕、或被疵、被盡粉骨候間、是又銘々以状申候、為御存知候、必以時分顕御志可申候、恐々謹言、十一月廿四日 薦野三河守殿(増時) P.226。
  38. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 六 戸次道雪・立花統虎(宗茂)連署感状 前之十六岩門庄久邊野切寄被崩候砌、別而依被砕御手、御被官歴々或分捕、或被疵候、誠感悅無極候、尖達上聞候条、必可被成御感候、仍銘々以状申候、為御存知候、恐々謹言、四月廿八日 薦野三河守殿(増時) P.226。
  39. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 七 戸次道雪・立花統虎(宗茂)連署書状 前之十六於吉原口防戦之砌、増時御手之衆最前切懸被砕手、或分捕高名、或手負、歴々之儀候、雖不始儀候、連々依御貞心深重、御被官衆計被差出候而茂如此之動、無比類御頼敷候、必軈而可達上聞之条、一稜可被成(平出)御感候、四五ヶ年以来御心懸之次第、為道雪・統虎永々不可有忘却候、仍今度被遂高名候、至各銘々以状申候、為御存知候、殊僕従与七郎鑓疵刀疵貳ヶ所、同僕従与一鑓疵刀疵三ヶ所、何茂深手之由候、毎々之儀候、誠感入申候、弥別而可被加御不便事、肝要候、何樣以時分賀之可申候、恐々謹言、三月十八日 薦野三河守殿(増時) P.227。
  40. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 九 立花統虎感状 前廿五高鳥居取崩候之刻、其方別而依被砕手、僕従忠二郎・源三郎・神四郎分捕、同弥二郎被疵之由候、高名感悅候、殊安部新介・宮下彦太郎戦死、忠節之次第、尤神妙候、必以時分一廉可賀之申候、恐々謹言、八月廿七日 三河入道殿(増時) P.227。
  41. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.113~115
  42. ^ 山田邦明『戦国のコミュニケーション』吉川弘文館、2002年、261-263頁。 
  43. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四三五 戸次道雪書状 尚々、十泉返書御内見候而、首尾可然様可被仰遣候矣、高野山清泰院与申聖、爰元へ罷越度之由候て、十時和泉守(惟長)所迄之一通令披見候、此七八ヶ年以前麓邊観進仕廻候由申候、我等者八幡候、致参會たる事無之候、彼一通之趣者我等をも知人之様書載候、おかしく候、如御存知我等者生得後生之儀者毛頭不存候、さ候間、高野聖なと知音之儀隙明候、哀爰元へ罷越候へかし、海ニさか付いたし候する物おと申居候、おかしく候、京都之儀、中國邊山東之事共、定而可有物語候へとも、頃赤馬へ逗留之由候間、能々稽古候而爰元にてもぬかされ候する間、為一真ハ有もしく候、所詮不入立か一之手にて候、万御心得候而可被仰遣候、十泉返事差遣候、是にも御静謐砌、下向之時預尋候へと計書載候、為御存知候、又吉河切紙致披見、則返進申候、宗歷被寄陣候儀者必定ニて候、後衆茂歴々着陣之由候、一動日限方角之儀未相聞候、色々面白調多々有之由候条、頓速之吉事茂可出来候哉、難計候、必二三日中重々直左右可有之候条、何様可申入候、恐々謹言、 五月十六日 、増時 御返申給へ 麟白軒道雪 P.565。
  44. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 高橋統増入薩摩付以立花賢賀働統増帰郷之事 P.486~487
  45. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.86
  46. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.81
  47. ^ 関原軍記大成[1]
  48. ^ 現在の福岡県新宮町