稲田正純
稲田 正純 | |
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稲田正純 | |
生誕 |
1896年8月27日 大日本帝国 |
死没 |
1986年1月24日(89歳没) 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1917年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第3船舶輸送司令官 第6飛行師団長心得 第2野戦根拠地隊司令官 阿城重砲兵連隊長 |
戦闘 |
日中戦争 太平洋戦争 |
稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月27日[1] - 1986年(昭和61年)1月24日[1])は、日本の陸軍軍人。陸士29期・陸大37期恩賜。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]鳥取県(日野町[2])出身[1]。陸軍三等軍医(少尉相当官。戦死[1])・稲田清淳の二男[1]。米子中学校(現在の米子東高校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業、同年12月、陸軍砲兵少尉に任官して野砲兵第10連隊付[1]。1920年(大正9年)11月に陸軍砲工学校高等科を卒業し[1]、さらに1925年(大正14年)11月[3]、陸軍大学校(37期)を優等(3席)で卒業して恩賜の軍刀を拝受[3]。
参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官、参謀本部部員(防衛課)、陸軍省軍務局軍事課高級課員[4]などを経て昭和13年7月に陸軍砲兵大佐に進級[1]。参謀本部第2課長(作戦課長)(1938年(昭和13年)3月1日 - 1939年(昭和14年)10月12日、ノモンハン事件当時)[4]、参謀本部付、陸軍習志野学校付、阿城重砲兵連隊長、第5軍参謀副長を歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級[1]。
1942年(昭和17年)7月に第5軍参謀長に転じ、1943年(昭和18年)2月に南方軍総参謀副長に補されるが[1][5]、南方軍隷下の緬甸方面軍・第15軍の立案したインパール作戦の無謀を繰り返し指摘し[6][7][8]、強硬な反対を続けたため[6][7][8]、同年10月15日付で南方軍総参謀副長を更迭されて第19軍司令部付となった[8][注釈 1] 。1943年(昭和18年)10月に第2野戦根拠地隊司令官、1944年(昭和19年)4月に第6飛行師団長心得、同年8月15日に停職、同年10月に第3船舶輸送司令官、1945年(昭和20年)4月に陸軍中将に進級すると同時に陸軍兵器本廠付[1]。同年5月に第16方面軍参謀長に補され[1]、九州で本土決戦に備えていたが終戦を迎え、同年11月に復員した[1]。
1946年(昭和21年)8月、九州大学生体解剖事件及び油山事件(油山米兵捕虜斬首事件)の戦犯容疑で巣鴨プリズンに入所し[1]、1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受け[9]、1948年(昭和23年)8月、横浜軍事法廷でBC級戦犯として重労働7年の判決を受けたが、1951年(昭和26年)6月に釈放された[1]。その後電源開発嘱託、日米石油役員など務めた[10]。
人物
[編集]- 1975年(昭和50年)頃、ノモンハン事件を執筆しようと考えていた作家の司馬遼太郎が、文藝春秋の半藤一利とともに稲田のもとを訪れた。事件当時の参謀本部作戦課長であった稲田は、「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった」「国境線のことは関東軍に任せていた」というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」と半藤に語ったという[11]。
- 第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた時に、米軍の奇襲上陸を受け、這う這うの体で、師団は西方に230キロ離れたサルミに撤退した。師団の兵員も含めて,14,500名のホーランディア守備隊のうち,二か月後にサルミにたどりついた将兵はわずか1,500名に過ぎなかった。米軍がサルミに侵攻する兆しが見えると、稲田は空中勤務者13名と司令部要員だけを連れ、大部分の部下を見捨てて後方に脱出した。独りよがりな稲田の行動は陸軍部内でも問題となり、のちに停職二か月の処分に付される[12]。
親族
[編集]栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 秦 2005, p. 21, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-稲田正純
- ^ “稲田正純”. とっとりデジタルコレクション. 2022年6月15日閲覧。
- ^ a b 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
- ^ a b 藤井 2015, p. 249, 第III部 常に優先された参謀の人事 - 表17 昭和期の参謀本部第2課長(作戦課長)
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』406頁。
- ^ a b 久山 2018, pp. 42–59, 第二章 インパール作戦が実施されるまで 「インパール作戦をめぐる人々」「ラングーン兵棋演習」「沈黙の責任」
- ^ a b 久山 2018, p. 65-69, 第二章 インパール作戦が実施されるまで - 「河邉中将」
- ^ a b c 久山 2018, pp. 69–71, 第二章 インパール作戦が実施されるまで - 「邁進」
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
- ^ https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E7%94%B0%20%E6%AD%A3%E7%B4%94-1638838
- ^ 『昭和の名将と愚将』178頁。
- ^ 瀬戸利春「検証西部ニューギニアの攻防 新しい機動戦に敗れた古い機動戦の軍隊」『歴史群像』2016年4月号(第136号)、学研プラス、pp.50 - 65
- ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 久山忍『インパール作戦 悲劇の構図 - 日本陸軍史上最も無謀な戦い』潮書房光人新社、2018年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 藤井非三四『昭和の陸軍人事』光人社〈光人社NF文庫〉、2015年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 半藤一利、保阪正康『昭和の名将と愚将』文春新書、文藝春秋、2008年。