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稲岡孝治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年明治14年)1月16日[1] - 没年不明)は、日本実業家。稲岡商店合名会社代表社員[2]、イカリ印タオル製造業[3]。族籍は兵庫県平民[4]

経歴

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兵庫県・稲岡九平の二男[2][4]。早くからタオル製造業に着眼し、斯業の要諦を具に研鑽する[3]1906年、組織を資本金30万円の合名会社に変更する[3]

後に分家する[4]。西志方村本工場及び宝殿、天神、池尻、田原の四分工場を有し、大阪、岡山、別府の三ヶ所に出張所を設け、月産優に15万ダースを超え、タオル製造にては本邦首位を占め、その製品のイカリ印タオルは全国業界に最優秀品として喧伝される[3]

人物

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稲岡孝治郎について、『商工資産信用録 第23回』には「職業・輸出向浴巾製織、調査年月・1921年10月、正身身代・L、信用程度・A」とある[5]

『商工資産信用録 第29回』には「職業・タオル製造、調査年月・1927年8月、正身身代・L、信用程度・A」とある[6]

趣味はスポーツ[1]、読書[3]。宗教は真宗本願寺派[3]。住所は兵庫県印南郡西志方村横大路[1][7](現・加古川市志方町横大路)。別宅は明石市相生町浜通[1]

家族

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稲岡家

1841年に創業した稲岡九平家(屋号・木綿屋)は、江戸だけでなく大坂へも積極的に販売して急成長し、幕末には姫路藩最大の木綿問屋となった[8]1882年松方デフレを機に在来の綿織物業が衰退すると、1891年に「稲岡商店」を創業してタオルの製造を開始し、1896年からは中国を中心に海外へのタオル輸出を開始して、発展を遂げた[3]。明治末期には、工場40か所、職工1400人、タオル織機1140台を擁し、年間輸出量も多い時で全国タオル輸出額の4分の1強を占め、国内最大のタオル製造業者となった[8]1970年鐘紡と合弁でタオル販売会社カネボウ・ベイエルシーを設立した(社長は4代目稲岡四郎の二男稲岡必三)[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『大衆人事録 近畿篇』兵庫21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月20日閲覧。
  2. ^ a b c 『最新業界人事盛衰録』イの部84頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 『工業人名大辭典』10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 『人事興信録 第7版』い127頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月18日閲覧。
  5. ^ 『商工資産信用録 第23回』兵庫県い之部5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年5月16日閲覧。
  6. ^ 『商工資産信用録 第29回』兵庫県い之部6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年5月16日閲覧。
  7. ^ 『官報 1906年01月12日』官報 第6758号 271頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月18日閲覧。
  8. ^ a b c 「稲岡工業株式会社文書」保存会の活動について-地域住民が担う史料保存活動の姿-” (PDF). 西向宏介 記録と史料 第28号. 2023年7月19日閲覧。
  9. ^ 『大日本紳士鑑』兵庫県印南郡339頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月14日閲覧。

参考文献

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  • 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1906年01月12日』日本マイクロ写真、1906年。
  • 商業興信所編『商工資産信用録 第23回』商業興信所、1921 - 1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 商業興信所編『商工資産信用録 第29回』商業興信所、1928年。
  • 通俗経済社編『最新業界人事盛衰録』通俗経済社、1931年。
  • 『工業人名大辭典』滿蒙資料協會出版部、1939年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 近畿篇』帝国秘密探偵社ほか、1940年。