秩父がかう平
秩父がかう平(ちちぶがかうひら[注釈 1])とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、畠山重忠が所用したと伝えられる太刀である。
「秩父がこう平(ちちぶがこうひら)[注釈 1]」とも表記されることがある。
伝来
[編集]三尺九寸(約 1.2 m)、身巾四寸(約 12.13 cm)の太刀で、畠山重忠の佩刀とされ、『源平盛衰記』作中に、宇治川の戦いの際に重忠が用い、長瀬判官代義員(木曽義仲の従弟)に対して抜き放ち、義員を怯ませて退かせた、との描写がある。
畠山は二人の武者を助て後、馬に打乗て向の岸につと揚る。敵は矢さきを汰へて散々に射けれ共、重忠錣を傾て攻寄る処に、木曾が従弟に、信濃国住人長瀬判官代義員と名乗て蒐出たり。赤地錦直垂に、黒糸威の鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。金造の太刀を抜て向けるに、畠山は、是ぞ宇治路の大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。
(『源平盛衰記』巻三十五『高綱渡宇治河事』より)
更に、重忠を描写した一節があり、
青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。
(『源平盛衰記』巻三十五『義経院参事』より)
重忠の佩用する太刀として「備前作のかう平」なるものが描写されている。
『平家物語』には重忠の太刀は「高平」である、と書かれており、上記『源平盛衰記』作中の「かう平」[注釈 1]が『平家物語』に書かれている「高平」と同じものであるならば、高平とは古備前派の刀工の名である[注釈 2]ため、「かう平」は備前高平の作による古備前物の太刀とみることができる。
実物についての考察
[編集]前述の『源平盛衰記』の描写が正しいとするならば、秩父がかう平は南北朝時代に隆盛を極める武用(兵仗)の大太刀のはしりであった、と考える事ができるが、長さ三尺九寸はともかく、平(身巾)四寸とは大太刀として見ても異例の幅広さである。
仮にこの通りであった場合、通常の太刀の体配からは大きく外れた外観の刀であったことになるが、実物、もしくは実物とされるものが現在に伝来しておらず、また押形等の記録も残されていないため、詳細については不明である。
東京都青梅市の高水山にある真言宗豊山派の寺院、高水山常福院(たかみずさんじょうふくいん)には近年まで畠山重忠が奉納した武具が伝えられていたとされ、現在でも、木製の模造品ながら、非常に見巾の広い太刀が往年の奉納品を伝えるものとして祀られている。
脚注
[編集]- ^ a b c 「ちちぶかうへい」もしくは「-こうへい」、あるいは「-かうたいら」もしくは「-こうたいら」との読みが当てられていることもあるが、「かう平(こう平)」が手掛けた刀工の名(脚注2参照)を表していると見る場合、「備前三平」として並ぶ他の2名、「包平」「助平」共に読みは「ひら」であることから「かう(こう)平」も「かう(こう)ひら」と読むのが妥当と考えられる。
- ^ 高平は包平、助平と並ぶ「備前三平(びぜんさんひら)」の一人とされる平安時代中期の備前国の刀工である。
なお、江戸時代前期の加賀国に越中守藤原高平(えっちゅうのかみふじわらたかひら)を初代とする、「高平」の名を持つ刀工の一族が存在するが、直接的な関係はない。
参考文献
[編集]- 中西立太:著『日本甲冑史 [上巻] 弥生時代から室町時代』 (ISBN 978-4499229548) 大日本絵画:刊 2008年 p.43