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福龍 (水雷艇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福龍から転送)
福龍
艦歴
計画
起工
進水 1885年
竣工 1886年
就役 1895年2月7日捕獲
2月27日、日本海軍籍に編入
除籍 1908年4月1日
要目(日本海軍時)
排水量 常備:115トン
全長 垂線間長:42.75m (140ft 3in)
全幅 5.00m (16ft 5in)
吃水 1.20m (3ft 11in)
機関 汽車1基
直立式2気筒2段膨張レシプロ1基
1軸 1,016馬力
速力 20ノット
航続距離
燃料 石炭:18トン(満載)
乗員
兵装 4.7cm保式単装軽速射砲2基
36cm水上魚雷発射管
単装旋回式2門、同固定式2門
その他 信号符字:GQHD(1895年〜)[1]

福龍(ふくりゆう/ふくりう[2])は日本海軍水雷艇日清戦争での鹵獲艇。

艦名は時代の艦名の「福龍(Pu Lung)」をそのまま受け継いだ。竣工当初は福建水師所属で「福」の字の付いた名の艦が多く所属していた。

概要

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本艇はドイツシーシャウ社英語版1886年光緒12年)に竣工した、「小鷹」と同様の大型の水雷艇である。清国海軍北洋水師に編入されて日清戦争に参戦、黄海海戦では海軍軍令部長樺山資紀海軍中将が乗艦する[3]巡洋艦代用西京丸」に40mまで近づいて雷撃を実施するなど奮闘した。1895年(光緒21年・明治28年)の威海衛攻略に於いて清国水雷艇は2月7日に湾からの脱出を図った[4][5]。しかしほとんどの艇は擱座や転覆により失われ、本艇は日本軍に降伏、そのまま日本軍で使用された。2月27日に日本海軍籍に編入[6]

日清戦争後は同型艦が無いため竹敷要港部に所属し主に朝鮮半島沿岸の警備に従事した。1902年(明治35年)に老朽化した汽車缶から水管缶へとボイラーを交換し、単煙突から2本煙突にと艦型が変化している。

日露戦争では呉鎮守府所属の第5艇隊(福龍、第25号水雷艇、第26号水雷艇、第27号水雷艇)の旗艦となり、日本海海戦にも参戦したが戦闘には参加できなかった。1908年(明治41年)に除籍。

脚注

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  1. ^ #信号符字点附 画像1『四月四日 軍艦須磨其他ノ艦舩ヘ點附ノ信號符字 逓信省告示 ○逓信省告示第七十一號 軍艦須磨其他ノ艦船ヘ點附ノ信號符字ハ左ノ如シ 明治二十八年四月四日 逓信大臣渡邊国武 信号符字 艦船名 GQHC 須磨 Su-ma. GQHD 福龍 Fuku-riu. …(以下略)…』
  2. ^ 読みは、いずれも同艇が明治30年代に撮影された写真の、舷側の艇名表記より。ふくりようではない。
  3. ^ 山高, p.92
  4. ^ Wright 2000, pp. 101–102.
  5. ^ Wright 2000, p. 103.
  6. ^ #帝国水雷艇 画像1『九十一 二月二十七日 捕獲清國水雷艇福龍ヲ帝國水雷艇トス 海軍省達 ○海軍省達第九號 捕獲清國水雷艇福龍ヲ帝國水雷艇ト定メラル 明治二十八年二月二十七日 海軍大臣伯爵西郷從道』

参考文献

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  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
  • 中川努「日本海軍特務艦船史」
世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
  • 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十四巻・軍事二・陸軍二・海軍:捕獲清国水雷艇福竜ヲ帝国水雷艇トス』。Ref.A01200839400。 
    • 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十七巻・交通(郵便~船車):軍艦須磨其他ノ艦船ヘ点附ノ信号符字』。Ref.A15113036900。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話』至誠堂(図説日本海事史話叢書4)、1981年
  • Wright, Richard N.J. (2000). The Chinese Steam Navy. London: Chatham Publishing. ISBN 978-1-86176-144-6