福地銭吉
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福地銭吉 ふくち せんきち | |
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生年月日 | 1868年11月25日 |
出生地 |
日本 伊賀国阿拝郡上柘植村 (現三重県伊賀市) |
没年月日 | 1921年4月4日(52歳没) |
出身校 |
第三高等学校 (現京都大学) |
所属政党 | 立憲国民党 |
選挙区 | 三重県第10選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1920年5月 - 1921年4月4日 |
在任期間 | 1911年 - 1920年 |
阿山郡会議員 | |
東柘植村長 |
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日[1])- 1921年(大正10年)4月4日[2][3][4])は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。
経歴
[編集]伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県[2]阿山郡東柘植村[4]上柘植[1]、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる[5]。第三高等学校で学んだ[2][4][5][注釈 1]。農業を営む[2]。
伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた[1][2][3][4][5]。
政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し[1][2][3][4][5]、学務委員、所得税調査委員なども務めた[1]。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが[2][3][4][6]、議員在任中の1921年4月に死去した[3][7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』107頁では卒業。