神原勝太郎
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神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年(明治17年)8月22日[1] - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。常石グループの創始者。神原汽船、常石造船創業者。
人物
[編集]広島県・神原嘉平次の三男[2][3]。1903年、帆船を3隻購入し石炭輸送を開始する[4]。海運事業を展開するうち、勝太郎は「船の製造や修理を自前でできるようになればコストダウンができる」と考え、常石の地で造船事業を開始した[4]。
傾いた家運を挽回しようと努力を怠らなかった[1]。村内屈指の資産家として数十万の富を得て、名門の誉を高くした[1]。瀬戸内海運送社長[1]、同専務[2][5]、村会議員、学務委員をつとめた[1]。
1908年、分家する[2][3]。『商工資産信用録 第33回 中国四国版』によると、神原勝太郎(調査年月・1941年10月)は「職業・造船修理、正身身代・N、信用程度・Cc」である[6]。住所は広島県沼隈郡千年村常石[2][5](現・福山市沼隈町常石)。
家族・親族
[編集]- 神原家
家系について、1939年刊行の『躍進岡山県・広島県・山口県・島根県・鳥取県総覧』によると「神原家の本家は神原祥で、菅原道真の後裔である。幾度かの変遷にあい、備中の坪生の城主だったが、毛利氏の支配下となり、遂に徳川時代に当地に来て土着した者が、その祖である。村内神社に碑があり、記録にとどめている。神原家は4代前の祖が分家をして一家を創った。代々農業及び海運業を営んで今日に至るが、先代嘉兵治の代までは豊かではなかった。」という[1]。
- 父・嘉兵治[1]あるいは嘉平次[2]
- 妻・ヒサ(1889年 - ?、広島、高田芳太郞の六女)[2][5]
- 長男・秀夫[5](1916年 - 1977年、常石造船社長、沼隈町長)
- 養子・五郞(1911年 - ?、広島、神原福一の弟)[2][5]
- 長女(養子・五郞の妻)
- 孫[2]
- 曽孫・弥奈子(ニューズ・ツー・ユー ホールディングス代表取締役)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『躍進岡山県・広島県・山口県・島根県・鳥取県総覧』209 - 210頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』カ140頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月5日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第13版 上』カ136頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月19日閲覧。
- ^ a b 寺院経営における企業スポンサーの役割に関する一考察-神勝寺と常石グループの事例から-10頁。小野瀬拡・山口浩、駒澤大学、Journal of Global Media Studies 第26巻。2023年7月6日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』広島12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月5日閲覧。
- ^ 『商工資産信用録 第43回 中国四国版』広島県カ之部6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 内外通信社『躍進岡山県・広島県・山口県・島根県・鳥取県総覧』内外通信社、1939年。
- 商業興信所編『商工資産信用録 第43回』商業興信所、1941 - 1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。