砺波志留志
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上・伊賀守 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 砺波臣 |
砺波 志留志(となみ の しるし)は、奈良時代の越中国(富山県)の地方豪族。氏は利波とも表記する。姓は臣。官位は従五位上・伊賀守。
出自
[編集]『古事記』によれば、砺波臣は孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命の末裔とされる。
経歴
[編集]本貫は越中国。天平19年(747年)3000石の米を東大寺大仏の智識のために献上し、銭1000貫を献上した大初位下・河俣人麻呂とともに外従五位下に叙せられる。天平勝宝元年(749年)越中国砺波郡にある東大寺領伊加留伎野地(いかるき。現在の富山県小矢部市石動)の南に土地を所有していた記録がある[1]。
称徳朝の天平神護3年(767年)東大寺に墾田100町を献上したことから、従五位上・越中員外介に叙任される。同じ年に、越中国の東大寺検校の任に当たり、文書や絵図に署名を残している[2]。光仁朝の宝亀10年(779年)伊賀守に任官している。
東大寺修二会の過去帳には、「米五千石奉加利波志留志」と記され、現在もお水取りでは毎年読みあげられている。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 天平19年(747年) 9月2日:外従五位下(直叙。奉米3000石)
- 天平神護3年(767年) 3月20日:越中員外介、従五位上(内位。墾田100町献於東大寺)
- 宝亀10年(779年) 2月23日:伊賀守
その他
[編集]富山県砺波市の埋蔵文化財センター兼歴史博物館施設である砺波市埋蔵文化財センターは、愛称を「しるし」といい、これは砺波志留志の名に由来する[3]。
脚注
[編集]- ^ 『大日本古文書』4巻375頁
- ^ 『大日本古文書』5巻662頁,685頁
- ^ 「砺波市埋蔵文化財センター」砺波市公式HP
参考資料
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 下鶴隆氏の論考「利波臣志留志-中央と地方の狭間」を読む 宝賀 寿男
- となみ野.jp 利波臣志留志 (散居村ミュージアム展示パネルより)
- Ⅰ-④原始・古代の日本『家持と志留志』|砺波正倉
- 高岡市万葉歴史館 所蔵論文目録検索
- [1] 無料公開マンガふるさとの偉人「砺波の大地を開拓した偉人の生涯 利波臣志留志」 発行 富山県砺波市教育委員会 2023年5月