石野芳男
石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10日[1][2] - 1950年(昭和25年)1月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]千葉県出身[1][2][3]。東京私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる[1][4]。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を卒業し歩兵第75連隊中隊長に発令された[1][2][3]。
1928年(昭和3年)8月、支那駐屯軍司令部付となる[1]。参謀本部員、参謀本部付(支那研究員・南京在勤)を経て、1932年(昭和7年)2月から同年5月まで上海派遣軍参謀として第一次上海事変に出動した[1]。以後、支那研究員(福州在勤)、関東軍司令部付(軍事顧問部)、参謀本部員、済南特務機関長、関東軍参謀、関東軍司令部付(軍政部顧問)、参謀本部付兼台湾軍司令部付(ホンコン駐在)などを務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進した[1][3]。1939年(昭和14年)2月、歩兵第215連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。宜昌作戦、錦江作戦などに参戦した[2]。1940年(昭和15年)12月、第9師団参謀長に転じ、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級した[1][3]。
1942年(昭和17年)7月、第1軍司令部付(太原特務機関長)となり、第1独立守備隊長、第11軍司令部付、第34軍司令部付(漢口特務部長)を務め、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進み、同年5月、陸軍歩兵学校付となる[1][2][3]。同年6月、第229師団長に就任し、石川県津幡で本土決戦に備えて終戦を迎えた[1][2][3]。同年12月に予備役に編入された[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 勲章