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石野広吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石野広吉
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年
死没 万治元年9月5日1658年10月1日
別名 六左衛門
戒名 浄心
墓所 東京都中野区の松源寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 菅沼定利徳川家康秀忠家光家綱
氏族 中原氏流石野氏
父母 石野広長
兄弟 広吉広之
花井定清
広貞広時広茂広道久留次正室、桜井政良
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石野 広吉(いしの ひろよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本

出自

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遠江国石野氏中原氏の末裔。『寛政重修諸家譜』に記される系譜は次の通りである。十市勝良-春宗-中原有象-致時-師任-師平-師遠(-親鑑-親秀-貞高-能直-能秀-満親-之親-政親、親鑑以下8人は『寛永諸家系図伝』には見えず、『尊卑分脈』や中原氏の系図では外記・貞親の子孫とされる)-師元-師尚-師綱-師季-師光-師宗-師良成良親王に従い駿河国水上に下向、師良以降は中原氏の系図に見えない)-石野良清(父に従い下向、後に遠江国山名郡石野村に移り住む)-師重-重清-師定-正師-師忠-広綱-広重-広安-師広-広成-広長-広吉[1]

生涯

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天正10年(1582年)、石野広長の子として誕生。

石野氏遠江国国人出身で戦国時代今川氏に属したが、父・広長の代から徳川家康に仕えた。天正12年(1584年長久手の戦いで父が戦死したため、幼い広吉は榊原康政によって扶育された。長じてからは叔父・石野広光の仕えていた菅沼定利に仕えたが、慶長7年(1602年)定利が死去すると徳川家康の直臣となり、広光ら菅沼旧臣と共に忍城城番に任じられた。

元和6年(1620年)江戸詰めを命じられ、寛永12年(1635年)石奉行となった。以後、江戸城の石垣や門・堀などの普請に従事した。知行地は武蔵国榛沢郡に240石を領した。万延元年(1658年)に死去。遺領は三男・広茂が継承し、その他の子らもいずれも旗本となった。なお次男・広時は旧主菅沼定利の養子となっている。

出典

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脚注

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜[1]