石野広吉
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正10年(1582年) |
死没 | 万治元年9月5日(1658年10月1日) |
別名 | 六左衛門 |
戒名 | 浄心 |
墓所 | 東京都中野区の松源寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 菅沼定利、徳川家康、秀忠、家光、家綱 |
氏族 | 中原氏流石野氏 |
父母 | 石野広長 |
兄弟 | 広吉、広之 |
妻 | 花井定清娘 |
子 | 広貞、広時、広茂、広道、久留次正室、桜井政良室 |
石野 広吉(いしの ひろよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。
出自
[編集]遠江国の石野氏は中原氏の末裔。『寛政重修諸家譜』に記される系譜は次の通りである。十市勝良-春宗-中原有象-致時-師任-師平-師遠(-親鑑-親秀-貞高-能直-能秀-満親-之親-政親、親鑑以下8人は『寛永諸家系図伝』には見えず、『尊卑分脈』や中原氏の系図では外記・貞親の子孫とされる)-師元-師尚-師綱-師季-師光-師宗-師良(成良親王に従い駿河国水上に下向、師良以降は中原氏の系図に見えない)-石野良清(父に従い下向、後に遠江国山名郡石野村に移り住む)-師重-重清-師定-正師-師忠-広綱-広重-広安-師広-広成-広長-広吉[1]。
生涯
[編集]石野氏は遠江国の国人出身で戦国時代は今川氏に属したが、父・広長の代から徳川家康に仕えた。天正12年(1584年)長久手の戦いで父が戦死したため、幼い広吉は榊原康政によって扶育された。長じてからは叔父・石野広光の仕えていた菅沼定利に仕えたが、慶長7年(1602年)定利が死去すると徳川家康の直臣となり、広光ら菅沼旧臣と共に忍城城番に任じられた。
元和6年(1620年)江戸詰めを命じられ、寛永12年(1635年)石奉行となった。以後、江戸城の石垣や門・堀などの普請に従事した。知行地は武蔵国榛沢郡に240石を領した。万延元年(1658年)に死去。遺領は三男・広茂が継承し、その他の子らもいずれも旗本となった。なお次男・広時は旧主菅沼定利の養子となっている。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第672,673