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石河忠喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石河忠喜
時代 江戸時代中期
生誕 宝永3年(1706年
死没 享保18年6月21日1733年7月31日
改名 七郎(幼名)→忠喜
別名 太八郎、伊賀、隠岐(通称)
主君 徳川宗春
尾張藩家老
氏族 石河氏(美濃石川氏)
父母 父:石河正章
兄弟 忠喜光當
正室:竹腰正武の娘
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石河 忠喜(いしこ ただよし)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第5代当主。

生涯

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宝永3年(1706年)、尾張藩家老石川正章の子として生まれる。

享保16年(1731年)6月、父正章の隠居により家督を相続し、美濃駒塚領主となる。享保17年(1732年)6月、江戸に参府し、江戸城で将軍吉宗に拝謁。同年9月、それまで「河」「川」の字を併用していた名字を「石河」と定める。

享保18年(1733年)6月21日死去。子のないまま没したため、分家興利の養子となっていた実弟の正茂(光當)が、実家に戻り家督を相続した。

参考文献

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  • 『名古屋市史』