石抹乞児
表示
石抹 乞児(せきまつ キル、? - 1267年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。子は石抹狗狗。
概要
[編集]石抹乞児は石抹高奴の孫にあたる。1223年(癸未)、チンギス・カンが威寧に至ると、石抹高奴は西京(大同府)の有力者劉伯林・夾谷常哥らとともにモンゴルに降り、千戸・遙授青州防禦使の地位を授けられた。また、1229年(己丑)の金朝平定戦にも従軍して「征行千戸」となったが、間もなく亡くなった[1]。
石抹高奴の息子が石抹常山で、父の地位を継いで千人隊長となった石抹常山は1243年(癸丑)に総管の地位を継いだが、程なくして早世した。石抹常山の死後は息子の石抹乞児が跡を継ぎ、万戸諸翼軍馬を率いて都元帥ネウリンの重慶府・瀘州・叙州侵攻に従い功績を挙げた。また、クドゥが臨洮で叛乱を起こすと、石抹乞児がモンゴル・漢人連合部隊を率いてこれを討伐した。至元2年(1265年)、都元帥の按敦に従って潼川に移り、至元4年(1267年)9月には蓬渓寨を攻めたがそこで亡くなった[2][3]。
モンゴル帝国の四川駐屯軍
[編集]- 成都等路万戸府(成都路)…耶律禿満答児・汪嗣昌一族・劉恩一族
- 嘉定万戸府(嘉定府路)…テムル・ブカ一族
- 保寧万戸府(広元路)…石抹不老一族・汪惟簡一族
- 順慶等処万戸府(順慶路)…不明
- 重慶五路守鎮万戸府(重慶路)…郝和尚バアトル一族
- 夔州路万戸府(夔州路)…石抹狗狗一族
- 叙州万戸府(叙州路)…不明
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻166列伝53石抹狗狗伝,「石抹狗狗、契丹人、其先曰高奴。歳辛未、太祖至威寧、高奴与劉伯林・夾谷常哥等以城降。会置三万戸・三十六千戸以総天下兵、遂以高奴為千戸、遙授青州防禦使、佩金符。己丑、従太宗伐金、為征行千戸、卒于軍。子常山、襲為千戸」
- ^ 『元史』巻166列伝53石抹狗狗伝,「癸丑、陞総管、領興元諸軍奥魯屯田、並宝鶏駅軍、権都総管万戸、歳餘卒。子乞児襲、領本万戸諸翼軍馬、従都元帥紐璘攻重慶・瀘・叙諸城、数有戦功。時忽都叛於臨洮、乞児等以蒙古・漢軍従往討之。至元二年、従都元帥按敦移鎮潼川。四年九月、従攻蓬渓寨、死焉、子狗狗襲」
- ^ 牛根2010,77頁
- ^ 牛根2010,77-78頁