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石抹乞児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石抹 乞児(せきまつ キル、? - 1267年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。子は石抹狗狗

概要

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石抹乞児は石抹高奴の孫にあたる。1223年癸未)、チンギス・カンが威寧に至ると、石抹高奴は西京(大同府)の有力者劉伯林・夾谷常哥らとともにモンゴルに降り、千戸・遙授青州防禦使の地位を授けられた。また、1229年己丑)の金朝平定戦にも従軍して「征行千戸」となったが、間もなく亡くなった[1]

石抹高奴の息子が石抹常山で、父の地位を継いで千人隊長となった石抹常山は1243年癸丑)に総管の地位を継いだが、程なくして早世した。石抹常山の死後は息子の石抹乞児が跡を継ぎ、万戸諸翼軍馬を率いて都元帥ネウリンの重慶府・瀘州・叙州侵攻に従い功績を挙げた。また、クドゥが臨洮で叛乱を起こすと、石抹乞児がモンゴル・漢人連合部隊を率いてこれを討伐した。至元2年(1265年)、都元帥の按敦に従って潼川に移り、至元4年(1267年)9月には蓬渓寨を攻めたがそこで亡くなった[2][3]

モンゴル帝国の四川駐屯軍

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻166列伝53石抹狗狗伝,「石抹狗狗、契丹人、其先曰高奴。歳辛未、太祖至威寧、高奴与劉伯林・夾谷常哥等以城降。会置三万戸・三十六千戸以総天下兵、遂以高奴為千戸、遙授青州防禦使、佩金符。己丑、従太宗伐金、為征行千戸、卒于軍。子常山、襲為千戸」
  2. ^ 『元史』巻166列伝53石抹狗狗伝,「癸丑、陞総管、領興元諸軍奥魯屯田、並宝鶏駅軍、権都総管万戸、歳餘卒。子乞児襲、領本万戸諸翼軍馬、従都元帥紐璘攻重慶・瀘・叙諸城、数有戦功。時忽都叛於臨洮、乞児等以蒙古・漢軍従往討之。至元二年、従都元帥按敦移鎮潼川。四年九月、従攻蓬渓寨、死焉、子狗狗襲」
  3. ^ 牛根2010,77頁
  4. ^ 牛根2010,77-78頁

参考文献

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  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 元史』巻166列伝53石抹狗狗伝
  • 新元史』巻163列伝60石抹狗狗伝