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ネウリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ネウリンモンゴル語: Neülin、? - 1263年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、サルジウト部の出身。父のタイダルの地位を継いで四川方面のタンマチ(辺境鎮戍軍)司令官となり、第4代皇帝モンケから第5代皇帝クビライの治世にかけて南宋軍との戦いで活躍した。『元史』などの漢文史料における漢字表記は紐璘(niŭlín)など。

概要

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ネウリンの父のタイダルは第4代皇帝モンケによって四川方面のタンマチ軍司令官に抜擢された人物で、南宋との戦いで多くの軍功を残したが、遠征中の1255年乙卯)に陣没した[1]

ネウリンは父の死後、モンケから父の軍団を継承するよう命じられた。1257年丁巳)には利州より白水を下り、大獲山を過ぎ、夔門を攻撃した。1258年戊午)に釣魚山に戻ったネウリンは成都にて都元帥の阿答胡らと合流するために東に向ったが、南宋の側では安撫の劉正や都統制の段元鑒らを派遣して寧江を東に渡る道を封鎖した。そのためネウリン軍は渡河のために南宋軍と夜明けから日没に至るまで戦い、ネウリン軍は2700の首級を挙げる勝利を得て河を渡り、遂に成都に至った。モンケはこれを聞いて金帛を与え、ネウリンを労ったという[2]

このようなモンゴル軍の動きに対し、南宋の蒲択之は楊大淵らに命じて剣門・霊泉山を守らせ、自らは軍を率いてモンゴルの占領下にある成都を攻撃した。南宋軍の攻撃を受けてモンゴル側の将の阿答胡が戦死したとの報が成都駐屯軍に届くと、諸王エブゲンらは「我が軍はカアンの本隊から遠く離れており、今からカアンに使者を派遣して代わりの指揮官の任命を待っていては南宋軍に勝てない。今ここでネウリンを指揮官とすれば、彼ならば諸将に号合して南宋軍を打ち破ることができるだろう」と述べ、遂にモンケの許可を得ずにネウリンを指揮官に選出した。果たしてネウリンは諸将を率いて南宋軍を霊泉山に破り、南宋の将軍の韓勇を捕らえて斬り、蒲択之の軍勢は遂に潰走した。さらにネウリンは軍を進めて雲頂山を囲み、南宋軍の帰路を絶ったため、南宋軍は遂にモンゴルに降った。この勝利によって成都・彭州・漢州・簡州・綿州は悉くモンゴルによって平定され、また威州・茂州の諸蕃も服属した。この功績によってネウリンはモンケより金銀・竹箭・銀鞘刀を与えられ、正式に都元帥に任じられた[3]

この頃のネウリン率いる軍勢は総勢2万であったが、ネウリンは5千をバヤン・バートルに委ね、自らは1万5千の軍勢を率いて重慶への侵攻を開始した。同年冬、モンケ率いる本隊が大獲山に進むと、これに呼応してネウリンも歩兵・騎兵5万及び軍船 200艘と称する大軍を率いて成都を発った。ネウリンは張威に500の兵とともに先鋒を任せ、水陸両路から重慶に攻め上がり、ネウリン配下の水軍は重慶周辺の長江の航行を鎖で封じることによって南宋の糧道を絶った。一方で モンゴル軍の間にも過酷な炎暑のために疫病が蔓延し、万全な態勢でない所に南宋の将軍の呂文煥が反攻をしかけてきた。やむむを得ず出陣したネウリンは一度呂文煥軍を破ったものの、皇帝モンケが急死してしまったために退却せざるを得なくなり、呂文煥の追撃にさらされることとなった[4]

モンケの急死によってモンゴル帝国ではクビライアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発したが、ネウリンは1260年(中統元年)にはクビライの下を訪れてその配下に入ったため、クビライの勝利後も引き続き四川方面での南宋軍との戦いに起用された。『元史』巻60地理志3には四川地方の碉門魚通黎雅長河西寧遠等処宣撫司/礼店文州蒙古漢児軍民元帥府という2つの官署を記録しているが、これはクビライ即位時に帰順したアンチュル家とタイダル家という四川方面の2大勢力の存続を公認する形で設置されたものとみられている[5]

ネウリンはこの頃梁載立を派遣して黎州・雅州・碉門・岩州・偏林関の諸蛮の投降を促し、結果として漢人・諸蛮からなる2万戸あまりを新たに従えた。また、クビライの命によってそれまでスゲが率いていた西川及び陝西の諸軍はネウリンの指揮下に入ることになり、ネウリンは秦州・鞏州・唐兀の地を管轄するようになった[6]1262年(中統3年)、南宋の将軍の劉整が瀘州の民とともにモンゴルに投降すると、呂文煥がこれを包囲するという事件が起こった。これを知ったネウリンは瀘州に救援に赴いて呂文煥の軍を破り、再度の攻撃を防ぐために瀘州の民を成都に移住させた。その後、1263年(中統4年)にネウリンは昌平で亡くなり、息子のイェスデルが跡を継いだ[7][8]

子孫

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ネウリンの息子はイェスデル(也速答児)とバラク(八剌)の2名が知られている。前述したようにネウリンの死後はイェスデルが後を継いだが、イェスデルの死後は何らかの事情でその地位を弟のバラクが継いだ。しかし、バラクの死後当主の座は再びイェスデルの血統に戻っている[9]

サルジウト部ボロルタイ家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「紐璘、珊竹帯人。祖孛羅帯、為太祖宿衛、従太宗平金、戍河南。父太答児、佐憲宗征阿速・欽察等国有功、拜都元帥。歳壬子、率陝西西海・鞏昌諸軍攻宋、入蜀。癸丑、与総帥汪田哥立利州。甲寅、攻碉門・黎・雅等城。乙卯、入重慶、獲都統制張実。是歳卒」
  2. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「紐璘偉貌長身、勇力絶人、且多謀略、常従父軍中。丁巳歳、憲宗命将兵万人略地、自利州下白水、過大獲山、出梁山軍直抵夔門。戊午、還釣魚山、引軍欲会都元帥阿答胡等於成都。宋制置使蒲択之、遣安撫劉整・都統制段元鑒等、率衆拠遂寧江箭灘渡以断東路。紐璘軍至、不能渡、自旦至暮大戦、斬首二千七百餘級、遂長駆至成都。帝聞、賜金帛労之」
  3. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「蒲択之命楊大淵等守剣門及霊泉山、自将四川兵取成都。会阿答胡死、諸王阿卜干与諸将脱林帯等謀曰『今宋兵日逼、聞我帥死、必悉衆来攻、其鋒不可当。我軍去朝廷遠、待上命建大帥、然後禦敵、恐無及已。不若推紐璘為長、以号令諸将、出彼不意、敵可必破』。衆然之、遂推紐璘為長。璘率諸将大破宋軍於霊泉山、乗勝追擒韓勇、斬之、蒲択之兵潰。進囲雲頂山城、扼宋軍帰路。其主将倉卒失計、遂以其衆降。城中食尽、亦殺其守将以降。成都・彭・漢・簡・綿等州悉平、威・茂諸蕃亦来附。紐璘奉金銀・竹箭・銀鞘刀、遣速哥入献。帝賜黄金五十両、即軍中真拝都元帥」
  4. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「時紐璘軍止二万、以五千命拝延八都魯等守成都、自将万五千人従馬湖趨重慶。冬、帝進軍至大獲山、紐璘率歩騎号五万、戦船二百艘、発成都。遣張威以五百人為前鋒、水陸並進、謀鎖重慶江、以絶呉・蜀之路、縛橋資州之口以済師。千戸暗都剌率舟師而下、紐璘将歩騎而南、旌旗輜重百里不絶、鼓譟渡瀘、放舟而東。蒲択之以兵分道要遮、遇輒敗之。紐璘至涪、造浮橋、駐軍橋南北、以杜宋援兵。聞大軍多瘧癘、遣人進牛犬豕各万頭。明年春、朝行在所、還討思・播二州、獲其将一人。宋将呂文煥攻涪浮橋、時新立成都、士馬不耐其水土、多病死、紐璘憂之。密旨督戦、不得已出師、大敗文煥軍、獲其将二人、斬之、遂班師。文煥以兵襲其後、紐璘戦却之」
  5. ^ 松田1993,41頁
  6. ^ 松田1993,39頁
  7. ^ 『元史』巻129列伝16紐璘伝,「中統元年、世祖即位、紐璘入朝、賜虎符及黄金五十両・白金二千五百両・馬二匹。紐璘遣梁載立招降黎・雅・碉門・岩州・偏林関諸蛮、得漢・蕃二万余戸。未幾、詔速哥分西川兵及陝西諸軍属紐璘、鎮秦・鞏・唐兀之地。三年、宋将劉整以瀘州降、呂文煥囲之、詔以兵往援、文煥敗走、遂徙瀘州民於成都・潼川。四年、為劉整所譖、徴至上都、験問無状、詔釈之。還至昌平、卒。子也速答児」
  8. ^ 牛根2010,81-83頁
  9. ^ 『元史』巻129列伝16也速答児伝,「[也速答児]弟八剌、襲為蒙古軍万戸。八剌卒、次子拝延襲、拝四川行省左丞」

参考文献

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  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 元史』巻129列伝16