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石井賢次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石井 賢次 / 石井 忠張
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正10年(1582年
戒名 法園院殿妙賢日恩大居士
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
官位 伊豆(受領名)
主君 龍造寺隆信鎮賢(政家)
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井常延、母:蓮華院(黒尾氏)
兄弟 常忠、法性院(石井忠俊室)、賢次陽泰院鍋島直茂室)、幸佑院(杉町信房室)
山田氏(常徳院)
信貞(忠明)百武茂兼百武賢兼養子)、松瀬孫介(松瀬利宗養子)、茂成石井信忠
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石井 賢次 石井 忠張(いしい ともつぐ/いしい ただはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の家老。佐賀藩祖・鍋島直茂の義兄、初代藩主・勝茂の伯父にあたる。

来歴

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龍造寺隆信家老格の重臣で、肥前国佐嘉郡飯盛城主であった石井兵部少輔常延の次男。母は蓮華院(黒尾氏)。妹に佐賀藩祖・鍋島直茂の正室で、初代藩主・勝茂の生母になった陽泰院がいる。

父や兄と共に、龍造寺隆信に仕えたが、隆信の後継者である鎮賢(しげとも、のちの政家)附の家老に配され、のちに鎮賢から偏諱を授けられて、「忠張」から「賢次」(ともつぐ)に改名した。

天正10年(1582年)、龍造寺氏筑後国鷹尾城主・田尻鑑種を攻めたとき、支城・江ノ浦城攻略のため、一隊を率いて出陣したが、苦戦を強いられて、賢次も戦死した。享年51。

石井氏の系図によれば、陽泰院鍋島直茂正室)の弟とされているが、享年からすると兄にあたる。

家督は嫡男・左衛門尉信貞(忠明)が継いだ。次男の進士之允茂兼は、龍造寺四天王の一人百武賢兼の養子となり、百武氏を継いだ。四男の修理亮茂成は、後に佐賀藩家老となり、鍋島直茂・勝茂父子に重用されている。

逸話

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後に佐賀藩重臣となる中野清明は、もともと武雄城主・後藤貴明の重臣であったが、出奔して龍造寺政家の家老である賢次の知行地に流れてきた。そこで、賢次は四男・茂成と共に清明と会見し、非常に優れた人物であったので、義弟の鍋島直茂に推挙した。この清明の孫が武士道論書『葉隠』の著述者として知られる山本常朝である。

子孫

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参考文献

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