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石井常延

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石井 常延
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 文亀3年(1503年[1]
死没 天正8年12月5日1581年1月9日
別名 忠常(『寛政重修諸家譜』)
戒名 常照院殿常祝日教大神儀
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
官位 兵部少輔または兵部大輔(受領名)
主君 千葉興常龍造寺家兼隆信
氏族 肥前石井氏藤原北家兼通流
父母 父:石井忠清、母:飯盛肥前守の娘
兄弟 常延忠家忠信、垂井某室、
山田治部少輔室、伊東家秀
蓮華院(小城黒尾氏)
常忠、法性院(石井忠俊室)、
賢次彦鶴鍋島直茂室)、
幸佑院杉町信房室)
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石井 常延(いしい つねのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将幕藩時代佐賀藩主・鍋島家外戚。藩祖・鍋島直茂の岳父であり、初代藩主勝茂の外祖父にあたる。もとは九州千葉氏及び龍造寺氏の重臣。肥前石井氏嫡流家(宗家)である石井嫡男家・和泉守家の当主。肥前国佐嘉郡飯盛城主。石井和泉守忠清の嫡男。母は飯盛肥前守の娘[2]忠常とも。

来歴

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肥前国佐嘉郡飯盛城主・石井和泉守忠清の嫡男として生まれる。実母は飯盛肥前守の娘。継母は龍造寺家純の四女であることから、龍造寺隆信鍋島直茂は義理の従弟にあたる。

長じて、肥前国小城郡主・千葉興常を烏帽子親として元服し、その偏諱を授けられて、「常延」と名乗った。正室は黒尾氏(蓮華院)。

享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは父・和泉守忠清とその弟たち、鍋島清久清房父子と共に出陣し、赤熊の毛と鬼面を被った奇襲部隊を率い、龍造寺家兼隊を援護した。家兼隊の戦勝に貢献して以来、家兼・隆信2代にわたって家老格の重臣として仕えた。

学問に秀でた文人武将とされ、鍋島直茂が幼少の頃の学問の師であったといわれ、直茂は、しばしば常延の屋敷に夜学に通ったと伝わる[3]

次女・彦鶴(陽泰院)は、佐賀藩祖・鍋島直茂の正室となり、初代藩主・勝茂を生んだ。

天正8年(1580年)死去。享年77。

墓所は、現在の佐賀市本庄町鹿子の妙光山常照院にある。

親族

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子は嫡男・刑部少輔常忠(龍造寺隆信の御馬廻衆)、長女・法性院(石井左衛門尉忠俊室)、次男・伊豆守賢次(忠張)、次女・彦鶴鍋島直茂室)、三女・幸佑院(杉町備中守信房室)の二男三女がある。

孫には石井信易信忠兄弟、石井茂成鍋島勝茂の他、瑞光院(太田茂連室)、千鶴(多久安順室)、彦菊(諫早直孝室)らが、曾孫には、鍋島茂里茂賢兄弟、市姫(上杉定勝室)、鍋島忠直元茂直澄直弘直朝直長兄弟、諫早茂敬鍋島茂歳成富長利らがある。

脚注

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  1. ^ 享年77で逝去との『石井系譜』の記載による。
  2. ^ 『石井系譜』
  3. ^ https://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=704