コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

石井茂吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いしい もきち

石井 茂吉
生誕 (1887-07-21) 1887年7月21日
日本の旗 日本 東京府北豊島郡王子村
死没 (1963-04-05) 1963年4月5日(75歳没)
出身校 東京帝国大学
職業 実業家
テンプレートを表示

石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。

経歴

[編集]

1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる[1]。京北中学で井上円了の薫陶を受ける[2]第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業[3]。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職[3]。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願[4][5]。8月に星製薬を退職し(森澤の退職は12月)[4]、石井の実家は米穀商であったため、その資金力を背景に1926年(大正15年)、2人で写真植字機研究所を設立[6][5]1929年(昭和4年)に実用機を開発し大手印刷会社に納品するが、オペレーター不足やルビ機能不搭載などによりほとんど使われなかった一方、潮汐表印刷等で海軍など軍関係の需要はあった[7]。このころ映画の字幕への採用が拡大し経営難が救われた[8]。森澤とは1933年に方針の違いから、個人的な交流は継続しつつ事業面では決別するが、この研究所が後に写研となり、日本の印刷・出版業界をリードする企業に育っていく。

1935年、ルビ機能の開発に着手し、翌1936年に実用化する[9]。この年、社名を石井写真植字機研究所と変更[10]。このころから写植機の軍関係の採用が拡大していく[11]1942年からは多言語対応が求められたプロパガンダ誌『FRONT』に採用された[12]1943年にはそれまで縦書きが主要であった組版の横書き対応を行う[13]1945年に豊島区大塚駅付近に移転するが、そこで空襲に遭う[14][15]

戦後は物資不足の中、活字の不要な写植への需要が大幅に増加し、平凡社の事典を中心に多くの注文に対応する[16]1950年、社名を株式会社写真植字機研究所と改め、石井が社長となる[5]1953年から始まったテレビ放送では、テロップ文字に写植が採用される[17]1956年には電算写植機SAPTONの開発が始まり[5]、1960年代に地方新聞から次々採用されるようになる[17]

1963年、石井は75歳で他界した[5][17]

書体の開発

[編集]

石井は自分自身で書体のデザインも手掛け、むしろその方面での評価が高い[18]。というのも会社創設期には、既存の金属活字を元に作成した書体を使おうとしたが、結果的にそれは写植機で十分使えるものにならず、独自の書体を作成する必要にせまられたからである[19]。かつて井上円了に師事し、能筆家であった石井は、写植用の新たな明朝体作成に挑戦した[6]。戦前は活版印刷が主流で写植の採用は主に外地の軍関係であったが、国内出版物にも北園克衛の詩集『夏の手紙』[20]、雑誌『書窓』[21]などにわずかに採用された[6]。その中のひとつ『西条八十詩謡全集』の奥付には、「製版所 写真植字機研究所、製版者 石井茂吉」と記されている[22]

戦後は明朝体だけでなく、ゴシック体教科書体など様々な要求に従って書体を作成した[16]。1946年には当用漢字1,850字が告示されたが、石井は印刷業には最低5,000字は必要と考え、作成していった[16]

1951年大修館書店鈴木一平から『大漢和辞典』(諸橋轍次 編)を刊行するために使用する文字(写植原字)の製作を依頼された[23]。この大著を印刷するための版は空襲で失われてしまっていたためである。彼は病気を理由に断るが、最終的に承諾。独力で約5万字におよぶ写植原字を8年がかりで書き上げた[1][24][5]。1960年に全13巻の刊行が完了し、文化的にも大きな足跡を残した[24]

石井の手になる石井明朝体石井ゴシック体など数々の石井書体をはじめとして、写研の書体フォント)の質の高さは彼以来の伝統であり[25]DTP時代に入っても高く評価され、橋本和夫鈴木勉今田欣一鳥海修、藤田重信、小林章といった写研出身の書体デザイナーが活躍している。

褒賞・受賞

[編集]

石井賞

[編集]

のちに写研では彼の名を冠して石井賞創作タイプフェイスコンテストを設け[5]、優秀な書体を写植文字盤として発売することとした。第1回は1969年に募集を開始し(締め切りは1970年1月末日)、1970年4月にコンテンスト結果が発表された。この賞からはナールスーシャなどの書体が生まれ、受賞者たちはそれぞれ、その後の日本のタイプフェイスデザインを引っ張っていく存在として成長していった。1998年の第15回をもって当コンテストは終了している。

石井賞創作タイプフェイスコンテスト
年度 石井賞受賞者 書体名 備考
1 1970年 中村征宏 ナール
2 1972年 鈴木勉 スーボ
3 1974年 鈴木勉 スーシャL・B
4 1976年 與口隆夫 未商品化
5 1978年 波多野煌二 未商品化
6 1980年 鴨野実 カソゴL
7 1982年 今田欣一 ボカッシィG
8 1984年 橘高はじめ キッラミンL
9 1986年 佐藤豊 未商品化
10 1988年 今田欣一 いまりゅうD
11 1990年 長谷川真策 ハセフリーミンB・E・H
12 1992年
13 1994年 郭炳權 未商品化
14 1996年 重野憲一
15 1998年

脚注

[編集]
  1. ^ a b 紀田順一郎『日本語大博物館 : 悪魔の文字と闘った人々』ジャストシステム、1994年1月、227頁。ISBN 4-88309-046-9 
  2. ^ 『日本語大博物館』ジャストシステム、228頁。 
  3. ^ a b 阿部卓也『杉浦康平と写植の時代 : 光学技術と日本語のデザイン』慶應義塾大学出版会、2023年3月、107頁。ISBN 978-4-7664-2880-3 
  4. ^ a b 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、125頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i 株式会社写研”. 株式会社写研. 2023年6月6日閲覧。
  6. ^ a b c 『日本語大博物館』ジャストシステム、232頁。 
  7. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、141-145頁。 
  8. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、151-155頁。 
  9. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、171-172頁。 
  10. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、150頁。 
  11. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、155頁。 
  12. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、176-178頁。 
  13. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、175頁。 
  14. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、180頁。 
  15. ^ 『日本語大博物館』ジャストシステム、236頁。 
  16. ^ a b c 『日本語大博物館』ジャストシステム、236-237頁。 
  17. ^ a b c 『日本語大博物館』ジャストシステム、240頁。 
  18. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、158頁。 
  19. ^ 『杉浦康平と写植の時代』慶應義塾大学出版会、161頁。 
  20. ^ 北園克衛『夏の手紙 : 詩集』アオイ書房、1937年https://dl.ndl.go.jp/pid/1231288/1/1 
  21. ^ 書窓 1(1)』日本愛書会書窓発行所、1935年4月https://dl.ndl.go.jp/pid/1774355/1/1 
  22. ^ 西条八十詩謡全集 第2巻 (抒情詩篇 前)』千代田書院、1935年、奥付頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1233480/1/249 
  23. ^ 『日本語大博物館』ジャストシステム、226頁。 
  24. ^ a b 編纂・刊行小史|漢字文化資料館”. 漢字文化資料館. 2023年6月7日閲覧。
  25. ^ 写研アーカイブ”. 写研アーカイブ. 2023年6月7日閲覧。
  26. ^ 公益財団法人日本文学振興会”. 日本文学振興会. 2023年6月7日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 写研 2023年6月7日閲覧。