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石井茂利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石井 茂利
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長7年(1602年
改名 信俊
別名 道忠
戒名 法用日俊
官位 壱岐(受領名)
主君 龍造寺政家鍋島直茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:行武長門守
母:石井忠繁の娘
養父:石井忠繁(外祖父)
鍋島信房の養女
家利茂清
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石井 茂利(いしい しげとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。佐賀藩鍋島氏の家老。神埼郡代。佐賀藩着座石井壱岐守家初代当主。

母方の祖母(石井石見守忠繁の正室)は鍋島清久の孫で、直茂(佐賀藩祖)の従姉である。つまり、茂利は鍋島清久の玄孫にあたる。

来歴

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龍造寺隆信の家臣行武長門守の子として誕生。母は龍造寺氏の重臣石井石見守忠繁の娘。外祖父忠繁の養子となり、石井氏に改姓し、さらに、隆信より偏諱を受けて、「信俊」(のぶとし)と名乗った。

天正12年(1584年)、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、衰退する龍造寺氏の勢力挽回に努める鍋島直茂を支えた。

直茂を補佐して、国政の事務を統括し、重用された。また、直茂から偏諱を授けられ、「信俊」改め「茂利」と名乗った。

直茂が豊臣秀吉から肥前国神埼郡を与えられると、茂利は郡代となり、郡の行政を司った。

文禄・慶長の役で、鍋島直茂が朝鮮半島に渡海すると、石井氏の十八将の一人として、龍造寺政家のもとで佐賀城留守居役をつとめた。

その後、蓮池城番に着任し、小曲出城を守備した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに続き、立花宗茂が籠る柳川城の攻略では、同族の石井生札義元と共に船大将に任ぜられて、水軍を率いた。

慶長7年(1602年)に病死した。龍造寺政家、鍋島直茂ともにその死を惜しんだという。家督は次男縫殿助茂清が継いだ。

子孫は、佐賀藩家老を世襲し、着座の家格で遇せられ、家禄1,250石を相伝した。

系譜

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石井忠繁(石見守)=①茂利(行武長門守の子)ー②茂清ー③孝成ー④常辰ー⑤常尚ー⑥常与ー⑦孝澄ー⑧孝知ー⑨孝起ー⑩孝寛=⑪孝祖(鍋島茂辰の子)ー⑫孝善

参考文献

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  • 『直茂公譜』(佐賀県立図書館所蔵)
  • 『石井系譜』(佐賀県立図書館所蔵)
  • 「石井家文書」(『佐賀県近世史料集成』所収、佐賀県立図書館所蔵)