矢野正倫
矢野 正倫(やの まさとも、?‐慶長19年(1614年)11月26日)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
生涯
[編集]伯耆国米子藩十八万石の大名・中村一忠[1]の重臣で三千石を賜っていた。
慶長14年(1609年)5月11日、一忠が急死する[2]と正室(家康の養女[3])[4]に子が無かったため中村家は断絶、正倫は浪人となる。
しかし一忠の急死時には、京都屋敷の側室に子が一人と(正室に遠慮して届けていなかった)、米子の側室[5]に妊娠7ヶ月の子がいた。両方とも男子だったので、正倫と彼の弟の正綱は中村家再興のため、正倫は京都の子を、正綱は米子の子を盛り立て再興の運動を始める。[6]
正倫は、中村家を断絶させた徳川家を頼らず[7]、大坂の陣が起きると「豊臣家が再び天下を獲った暁に中村家を再興させる」という条件で大坂に入城した。
大野治長隊の部隊長となった正倫は飯田家貞と共に各兵300を率いて、大坂城北東の今福の砦を任される。
1614年11月26日、今福砦を佐竹義宣軍1,500が攻撃を開始する。佐竹軍の銃撃戦に、後方の兵は臆し、先頭の後詰が動かなくなる。それを見た渋江政光・戸村義国・黒沢道家らが柵に迫り激戦となる。圧倒的兵力差の前で奮戦虚しく、正倫・家貞は討ち死にする。現在の足立区の源長寺と青山霊園に墓所が築かれた。
その後豊臣軍は木村重成・後藤基次ら援軍3,000を派遣する[8]が、徳川側の上杉景勝・堀尾忠晴・榊原康勝の軍勢1,000が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退・敗北する(今福の戦い)。
中村家のその後
[編集]大阪落城後、正倫の弟・正綱が米子の子(中村一清)を、一忠の母[9]の実家であった鳥取藩主・池田光仲[10]を頼り、鳥取藩着座[11]・池田知利の客分となる[12]。陪臣の身分ではあるものの、お家再興には成功した[13]。
京都の子については、未詳だが九州の大名の家臣になった、京都で出家したなどの説がある。
脚注
[編集]- ^ 中村一氏の子、関ヶ原の功績で11歳の時に伯耆一国を与えられた。
- ^ 叔父・横田村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、20歳で急死した。
- ^ 合議による合意を得ない大名家同士の婚姻政策の一環。
- ^ 松平康元娘・浄明院。のち毛利秀元継室。
- ^ 名は、梅里と伝わる。
- ^ 当時は末期養子が認められていなかった。
- ^ 徳川家は豊臣恩顧の大名の改易を徹底的に行い、豊臣政権の三中老を務めた中村家を危険視したと考えられる。
- ^ 佐竹方の渋江政光が戦死。
- ^ 池田せん。父は池田氏の祖・池田恒興。
- ^ 恒興の曾孫にあたる。
- ^ 鳥取藩では家老を指す。
- ^ 禄高100から150石。
- ^ 一清の子孫は明治維新をむかえ、現当主・中村義和は千葉県に在住し、分家の中村忠文(中村家の会会長)は鳥取市で中村歯科医院を開業している。
参考資料
[編集]- 「因伯大名の戦国時代」
- 「大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略」