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矢木亮太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢木 亮太郎
生誕 1871年11月24日
日本の旗 日本 石川県
死没 1948年8月3日
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1892年 - 1915年
最終階級 陸軍少将
除隊後 第二中外印刷、中外印刷各社長
墓所 多磨霊園[1]
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矢木 亮太郎(やぎ りょうたろう、1871年11月24日明治4年10月12日[2]〉 - 1948年昭和23年〉8月3日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将位階および勲等功級正五位勲三等功四級[3][4]

経歴

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石川県金沢市に於いて[2][3]、旧加賀藩士矢木新治の長男として生まれる[5]。幼少にして志を立て、単身で上京。陸軍幼年学校に入学。1892年(明治25年)陸軍士官学校第3期卒業[2][3]1900年(明治33年)陸軍大学校第14期卒業[2][3]

日清戦争日露戦争に出征。1910年(明治43年)10月に歩兵第43連隊長を経て、翌月、陸軍歩兵大佐に昇進[2][3]。その後、1914年(大正3年)1月に歩兵第37連隊長を経て、1915年(大正4年)8月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入した[2][3]

退役後は、加越能育英社の幹部として郷土に尽くし、財団法人帝国飛行協会の役員として民間飛行の発展に尽くした。この他第二中外印刷、中外印刷各社長などを歴任した[5]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 昭和11年11月、祖先の墓所を金沢の野田山墓地より改葬
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』736頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』103頁。
  4. ^ a b c d e 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』、昭和6年4月1日調。
  5. ^ a b 人事興信所 1943, ヤ10頁.
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。

参考文献

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