矢崎勘十
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矢崎 勘十(やざき かんじゅう、1893年3月5日 - 1969年6月23日)は大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]- 1893年(明治26年)3月5日-出生
- 1911年(明治44年)12月1日-士官候補生・歩兵第58連隊附
- 1912年(大正元年)12月1日-陸軍士官学校入校
- 1914年(大正3年)5月28日- 陸軍士官学校卒業(26期)
- 1914年(大正3年)12月25日-陸軍歩兵少尉・歩兵第58連隊附
- 1918年(大正7年)7月-陸軍歩兵中尉
- 1919年(大正8年)9月-陸軍歩兵学校附
- 1921年(大正10年)12月14日-陸軍大学校(36期)入校
- 1924年(大正13年)3月-陸軍歩兵大尉
- 1924年(大正13年)11月29日-陸軍大学校卒業・歩兵第58連隊中隊長
- 1925年(大正14年)5月-歩兵第50連隊中隊長
- 1926年(大正15年)3月- 陸軍歩兵学校教官
- 1928年(昭和3年)1月- 中国東北軍応聘武官(奉天)
- 1929年(昭和4年)1月-歩兵第47連隊附
- 1929年(昭和4年)8月-陸軍歩兵少佐・歩兵第47連隊大隊長
- 1930年(昭和5年)8月-陸軍歩兵学校教官
- 1931年(昭和6年)5月-中国東北軍應聘武官
- 1931年(昭和6年)9月-関東軍司令部附
- 1932年(昭和7年)2月-歩兵第33連隊附
- 1932年(昭和7年)9月-混成第14旅団参謀
- 1934年(昭和9年)4月-戦車第2連隊附
- 1934年(昭和9年)8月-陸軍歩兵中佐
- 1936年(昭和11年)8月-陸軍戦車学校附
- 1936年(昭和11年)12月1日-第14師団参謀
- 1938年(昭和13年)1月1日-留守第14師団司令部附
- 1938年(昭和13年)3月1日-陸軍歩兵大佐
- 1938年(昭和13年)6月2日-東京帝国大学配属将校
- 1938年(昭和13年)11月18日-第108師団参謀長
- 1940年(昭和15年)2月-留守第8師団司令部附
- 1940年(昭和15年)3月9日-広東特務機関長
- 1940年(昭和15年)12月2日-陸軍少将
- 1942年(昭和17年)1月-香港総督府総務部長
- 1944年(昭和19年)6月27日-陸軍中将
- 1944年(昭和19年)8月30日-汪兆銘政権最高軍事顧問
- 1945年(昭和20年)4月23日-教育総監部附
- 1945年(昭和20年)6月1日から10月11日- 第321師団長
- 1945年(昭和20年)-第321師団終戦業務処理委員長
- 1945年(昭和20年)12月-予備役編入
- 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
- 1969年(昭和44年)6月23日-没
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。