矢島杉造
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矢島 杉造(やじま すぎぞう、1889年(明治22年)5月29日[1] - 1948年(昭和23年)5月9日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。
経歴
[編集]新潟県長岡市出身[1]。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した[2]。朝鮮総督府試補、内務部第二課長、内務局社会課長、地方課長、京畿道内務部長、全羅南道知事を歴任[1][2]。1935年(昭和10年)には農林局長に就任した[2]。
1937年(昭和12年)に退官した後は、朝鮮林業開発株式会社社長となった[2]。1939年(昭和14年)に退任した後は、朝鮮米穀市場株式会社社長を務めた[2]。
1948年(昭和23年)5月9日、東京都練馬区にて死去[要出典]。
宗教は真言宗、趣味はゴルフ[2]。
家族
[編集]- 父・矢島専造 ‐ 矢島組(1908年創業、石油採掘原油販売、長岡市)代表[3]。庄屋の子として生まれ、長岡の質屋「糸専」の養子となるも、養父没後質屋をやめ、山師として新潟や秋田で鉱山開発に携わり、油田採掘に成功し財を成した。[4][5][6]
- 兄・矢島富造 (1883-) ‐ 専造の長男。新潟県多額納税者、住友合資会社東京支店長。東京商業高等学校卒業後、住友に入り、北海道電燈、住友電線、九州送電、山東鉱業、留萌鉄道、大日本鉱業、日本電気、北樺太鉱業、東洋窒素肥料、汐留駅運送、南米土地、藤倉電線、扶桑海上火災保険などの役員も務めた。岳父に高橋豊夫(東大数学科卒業生第一号、広島高等師範学校教授)、豊夫の妹の夫に志賀直温。富造の相婿に本渓湖洋灰(大倉財閥系)社長の梶山又吉、朝鮮総督府道理事官の大塚末松、東樺林業社長の二宮純一。[7][8][9]
- 兄・矢島吉造(1886-) ‐ 専造の二男。奥羽石油代表取締役。石油関連書の著書あり。[10]
- 妻・タケヨ (1899-) ‐ 良寛研究者・西郡久吾の長女。[6][11]
- 伯父・大橋一蔵(1848-1889) ‐ 専造の兄[5]。教育者、開拓者。 新潟県南蒲原郡の郷士。新発田藩の支藩・沢海藩の代官・大橋彦造の長男。萩の乱に連座し自首、禁固刑となるが恩赦にて帰郷し、弥彦村に明訓校を創立。1886年北海道開拓を志し、北越殖民社を創始し江別に入植。1889年日本帝国憲法発布の祝賀のため皇居前和田蔵門にいた際に、花電車に轢かれそうになった老女を救い、自らは重症を負って死す。[12][13]
脚注
[編集]- ^ a b c 輓近大日本拓殖史 1934, p. 468.
- ^ a b c d e f 人事興信録 1941, p. ヤ之部 矢(澤、下、島嶋) ヤ一四.
- ^ 銀行会社要録 : 附・役員録 第十四版東京興信所、1912
- ^ 秋田石油案内 泉谷兵吉 秋田鉱業時報社 1918
- ^ a b 『横山源之助全集第五巻富豪史』法政大学出版局, 2004、p225-
- ^ a b 矢島杉造『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 矢島富造『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 矢島富造『越・佐傑人譜 昭和14年度版』日本風土民族協会
- ^ 矢島富造『全日本業界人物大成 乾巻』全日本業界人物大成刊行会 1932
- ^ 『人事興信録 第11版下』1937「矢島吉造」
- ^ 展覧会特別展 良寛を敬愛した人びと展 西郡久吾、相馬御風と長岡ゆかりの先人たち新潟日報、2023/8/4
- ^ 大橋一蔵(おおはしかずぞう) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 関矢孫左衛門と北越植民社(2)北海道開拓倶楽部
参考文献
[編集]- 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。
- 没年・場所は新潟県長岡市戸籍謄本、2019年による。