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瞿兌之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瞿兌之(瞿宣頴、瞿益鍇、瞿蛻園)
復旦大学卒業時(1919年)
プロフィール
出生: 1894年[1][2][注 1]
死去: 1973年8月28日[注 2]
中華人民共和国の旗 中国上海市[3]
出身地: 清の旗 湖南省長沙府善化県[4]
(現・長沙市
職業: 歴史学者・文学者・官僚
各種表記
繁体字 瞿兌之
簡体字 瞿兌之
拼音 Qú Duìzhī
ラテン字 Ch'ü Tui-chih
和名表記: く たいし
発音転記: チュー・トゥイチー
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瞿 兌之(く たいし、1894年1973年8月28日)は、中華民国中華人民共和国の歴史学者(中国古代史など)・文学者・官僚。名は宣頴。字は兌之。後に益鍇と改名[5]。号は銖庵。晩号は蛻園。歴史学者・文学者として活動する一方で、北京政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会では官僚をつとめた。祖父は清末における軍機大臣・外務部尚書の瞿鴻禨[5]

事績

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北京政府・蒋介石国民政府での活動

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復旦公学(復旦大学)で文学士を取得。1920年民国9年)9月22日、交通部秘書室弁事に就任し、1922年(民国11年)に国務院秘書署理となった。翌1923年(民国12年)1月9日、国務院秘書に正式に任命され、以後、北京政府の崩壊まで在任したと見られる。1926年(民国15年)7月22日には国史編纂処処長 、11月18日には印鋳局局長署理を兼任した[6][注 3]

国民政府でも、瞿兌之は河北省政府秘書長や内政部秘書を歴任している[6]。官僚として活動する一方、私立南開大学国立北平師範大学私立燕京大学私立北京輔仁大学で講師となる。燕京大学歴史系では1928年に「歴代風俗制度」という課目を設置し、中国史上における平民の生活状況について講義した[7]

親日政権での活動

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王克敏らが中華民国臨時政府を創立した後の1938年(民国27年)10月21日、瞿兌之は行政委員会秘書(行政委員会委員長:王克敏)として任用される[8][注 4]。同年12月26日には早くも同委員会秘書長に抜擢された[9]。臨時政府時代において、瞿は新民印書館の監査役にも就任している[10]。なお、日本敗戦時の1945年8月時点でも、瞿はこの地位に在ったことが確認できる[11]。1940年1月に創刊された雑誌『中和月刊』の主幹にもなった[12]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。この時、王克敏が同委員会委員長になったが、臨時政府行政委員会秘書長を改組したと考えられる同委員会秘書庁庁長は、同年5月4日に王が兼任することになる[13]。そのため、同委員会が成立した時点における瞿兌之の正確な地位は不明である[注 5]。しかし6月6日、王克敏が汪兆銘(汪精衛)らとの対立の末に華北政務委員会委員長などから辞任に追い込まれると、同日に瞿が秘書庁庁長代理に任命された[14]。7月17日には庁長に正式に任命されている[15]

1941年(民国31年)5月、国立華北編訳館が設立され、瞿兌之が館長として起用された[16]。同年7月5日、瞿は秘書庁庁長を辞職しており[17]、これにより編訳館館長専任になったと見られる。1944年(民国33年)10月25日、新たに発足した中日文化協会華北総分会の監事に就任した[18]

中華人民共和国での活動

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日本敗戦後、瞿兌之は漢奸として逮捕・訴追されることは無かった。しかし、親日政権参加への後悔の念は強く、その意思につき晩号「蛻園」を用いることで示した。戦前に赴任していた南開大学・燕京大学・輔仁大学に復帰して教鞭をとっている[1]1949年以後は上海市に移り、中華書局上海編集所(通称:「中華上編」)で特約編輯(特別契約編集者)となった。また、上海市徐匯区で第2期から第4期の特別招待政治協商会議委員に選出されている[3]

しかし文化大革命が起きると、1968年9月11日に瞿兌之は突然逮捕された。同年11月20日、親日政権参加の経歴や毛沢東林彪江青への「侮辱的言動」などを理由として、上海市検法軍事管制委員会において懲役10年の判決を言い渡された。瞿は上海市提籃橋監獄に収監され、1973年8月28日、気管支炎などにより獄死した。享年80[3]

著書

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  • 『漢代風俗制度史』(前編、広業書社、1928年; 上海文芸出版社、1991年)
  • 『方志考稿』甲集六編(1930年)
  • 『長沙瞿氏家乗十巻』(1934年)
  • 『中国駢文概論』(世界書局、1934年)
  • 『北平史表長編』(国立北平研究員史学研究会、1934年)
  • 『汪輝祖伝述』(商務印書館、1935年)
  • 『同光間燕都掌故輯略』(世界書局、1936年)
  • 『中国歴代社会史料叢鈔』甲輯三冊(商務印書館、1938年; 上海書店、1985年)
  • 『杶廬所聞録・養和室随筆』(遼寧教育出版社、1997年)

ほか多数

注釈

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  1. ^ 橋川編(1940)、774頁及び徐主編(2007)、2744頁は「1892年」生まれとしている。本記事は高克勤(2011)及び外務省情報部編(1937)に従う。
  2. ^ 徐主編(2007)、2744頁は「1968年没」としているが、本記事は高克勤(2016)に従う。
  3. ^ 北京政府・蔣介石国民政府の『政府公報』における表記は「瞿宣頴」となっている。
  4. ^ 中華民国臨時政府・華北政務委員会における表記は「瞿益鍇」となっている。
  5. ^ 華北政務委員会が成立した1940年3月30日から5月4日までの秘書庁庁長が誰であったか、任命された人物がいたのかは、公報等でも確認できない。

出典

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  1. ^ a b 高(2011)。
  2. ^ 外務省情報部編(1937)、115頁。
  3. ^ a b c 高(2016)。
  4. ^ 「旧譜序録 同治庚午譜序一」『長沙瞿氏家乗』上冊・巻一。
  5. ^ a b 橋川編(1940)、774頁。
  6. ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:瞿宣頴」
  7. ^ 常建華「従社会生活到日常生活(学者論壇)―中国社会史研究再出発」『人民日報』2011年3月31日、第7版(理論)。
  8. ^ 臨時政府令、令字第285号、民国27年10月21日(『政府公報』第40号、民国27年10月24日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  9. ^ 臨時政府令、令字第309号、民国27年12月26日(『政府公報』第50号、民国28年1月(日数不明)、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
  10. ^ 帝国興信所編『帝国銀行会社要録 昭和十五年版 第二十八版』、「中華民国」10頁。
  11. ^ 下中弥三郎刊行会編(1965)、184頁。
  12. ^ 『日華学報』第77号、1940年2月号、22-23頁。
  13. ^ 華北政務委員会令、会字第3号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会1頁)。
  14. ^ 華北政務委員会任用令、任字第311号、民国29年6月6日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会34頁)。
  15. ^ 国民政府令、民国29年7月17日(『華北政務委員会公報』第13-18期合刊、民国29年8月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  16. ^ 「藤村の『夜明け前』漢訳」『同盟旬報』5巻20号通号147号、昭和16年7月中旬号(7月30日発行)、同盟通信社、13-14頁。
  17. ^ 国民政府令、民国30年7月5日(『華北政務委員会公報』第81・82期合刊、民国30年7月29日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  18. ^ 「中日文化協会華北総分会発足」『揚子江』7巻11/12号通号73号、民国33年12月、揚子江社、41頁。

参考文献

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  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 高克勤「上海世紀出版:瞿蛻園与中華上編」山西出版伝媒網(原典:『東方早報』)2011年7月24日 ※リンクはwebアーカイブ
  • 高克勤「中華上編為何要請瞿蛻園担任特約編審?」『澎湃新聞』2016年2月21日
  • 下中弥三郎刊行会編『下中弥三郎事典』平凡社、1965年。