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真赤な太陽 (美空ひばりの曲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「真赤な太陽」
美空ひばりシングル
初出アルバム『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』
A面 真赤な太陽
B面 やさしい愛の歌
素敵なランデブー(1992年盤)
リリース
規格 7インチシングル
ジャンル 歌謡曲リズム歌謡)、グループ・サウンズ
レーベル 日本コロムビア
作詞・作曲 作詞:吉岡治
作曲:原信夫
美空ひばり シングル 年表
島の夕顔
(1967年)
真赤な太陽
1967年
芸道一代
(1967年)
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真赤な太陽」(まっかなたいよう)は、1967年昭和42年)5月25日に発売された、美空ひばりジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲。

解説

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グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒット[注釈 1]を飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツ[注釈 2]の5人を従えて歌った楽曲。元は美空ひばり芸能生活20周年記念アルバム『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』に収録する為に制作された曲で、シングル盤を発売する際にひばりのスタッフの中で評判が高く、ひばりの母・加藤喜美枝もシングル化を推したことから、アルバムからのシングル・カットとして発売されることになったという話が残る[1]

本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった。

結果的に、「ブルー・シャトウ」の150万枚には及ばなかったものの、140万枚を売り上げるミリオンセラーとなり[2]、記録的な売り上げを残した。これは美空ひばり自身の歴代シングル売り上げ枚数では第4位に相当する[2]。後に多数のシンガー、ミュージシャンにカバーされた曲でもある(後述)。

作曲を手がけた原信夫によれば、「ひばりの母さん(加藤喜美枝)から『お嬢[注釈 3]に曲を書いてよ』と頼まれて、最初は演歌風のものを書こうと思ったが、ありきたり(のメロディー)になっちゃうんで、開き直ってジャズのリズムで作った」とのことで、ひばりは本曲について「これは私の曲じゃないよね」と原に言うと、「ジャズのリズムならお手の物でしょう」と原が返し、それにひばりは笑みを浮かべたという逸話が残る[3]。また当初は原が率いていたビッグバンド「シャープス&フラッツ」が演奏することも考えたが、グループ・サウンズブームだったことに目をつけて、原の脳裏にふと思い浮かんだブルー・コメッツの井上忠夫(のちに井上大輔)にアレンジを依頼し、バックもブルー・コメッツが務めることになったという[3]

また原は本楽曲が完成した際、ひばりと江利チエミのどちらに歌わせるか迷った末にひばりの楽曲にしたことも後に語っている。本楽曲がヒットした後にチエミは「あれは本当は私の曲よ」と嫉妬したという[4]

カップリング曲の『やさしい愛の歌』は、やはり『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』収録曲で、「真赤な太陽」の作曲を手がけた原信夫が自身のビッグバンド「シャープス&フラッツ」と共に演奏に加わっている。

収録曲

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オリジナル盤

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  1. 真赤な太陽
  2. やさしい愛の歌

1992年盤

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  1. 真赤な太陽
    • 作詞:吉岡治、作曲:原信夫、編曲:井上忠夫
  2. 素適なランデブー

カバー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「ブルー・シャトウ」は同年の第9回日本レコード大賞を受賞している。
  2. ^ ブルー・コメッツも日本コロムビア所属のアーティストであった。
  3. ^ 「お嬢」は美空ひばりの愛称。

出典

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  1. ^ 「美空ひばり/真っ赤な太陽を作曲」我が半生の記 - 原信夫 北日本新聞 2010年8月31日付参照
  2. ^ a b 「あのころ番付 ひばり『柔』は190万枚」『日経プラスワン』2000年6月24日付、1頁。
  3. ^ a b 西田浩 (8 July 2021). "抜群のスイング感、美空ひばりの「すごみ」…歌謡界への貢献〈下〉". Yomiuri ONLINE. 讀賣新聞社. 2021年8月25日閲覧
  4. ^ たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京、2006年9月1日放送)

関連項目

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