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益田昭雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
益田 昭雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県
生年月日 (1938-01-15) 1938年1月15日(86歳)
身長
体重
175 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1962年
初出場 1962年9月27日
最終出場 1970年4月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

益田 昭雄(ますだ あきお、1938年1月15日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手投手)。

1970年の「黒い霧事件」にて敗退行為に関与したとして、池永正明らと共に永久追放処分とされた。

来歴

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山口県立久賀高等学校から社会人野球の山陽特殊製鋼へ進み、1962年第33回都市対抗野球大会に出場すると2回戦(対日本鉱業日立戦)で石戸四六日立製作所からの補強選手)と投げ合い完封勝利を収めた。チームは準々決勝まで進出するも東洋レーヨンに敗れた[1]

同年に読売ジャイアンツへ入団し、1963年に初勝利を含む2勝を挙げる。翌年こそ勝ち星を挙げられなかったが1965年1966年に4勝を挙げ、1966年の日本シリーズ(対南海ホークス戦)では3勝2敗で迎えた第6戦の先発を任され、皆川睦雄と投げ合い完封勝利を収めた。チームはこの勝利で日本一となり益田は胴上げ投手となったが、最後の対戦打者は野村克也でレフトフライに打ち取っている。同年10月の日米野球では対ロサンゼルス・ドジャース戦に先発し、完封勝利を挙げるなど充実したシーズンを送った。なお、日米野球での日本人投手による完封勝利は1962年村山実阪神タイガース)に続く史上2人目の快挙だった。

1968年西鉄ライオンズへ移籍し、開幕直後から先発として起用されて7勝を挙げ、6月16日の対南海ホークス戦では公式戦で自身初の完封勝利を挙げた。同年は初の規定投球回にも到達し、1969年も自己最多となる8勝を挙げた。最大の武器であるスクリューボールを主体にスライダーやカーブ、シュート、フォークなど多彩な変化球で打者を翻弄した。

しかし、1970年に発覚した黒い霧事件にて敗退行為に関与したことが判明し、永久追放処分となった。球界を離れてからは福岡県内でタクシー運転手として勤務している。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1962 巨人 3 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 25 6.0 6 0 2 0 0 3 0 0 0 0 0.00 1.33
1963 11 0 0 0 0 2 1 -- -- .667 138 30.2 36 5 11 0 0 21 2 1 24 17 4.94 1.53
1964 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 39 9.0 10 1 2 0 0 7 0 0 5 5 5.00 1.33
1965 33 6 0 0 0 4 1 -- -- .800 300 76.0 52 3 27 2 2 47 0 2 19 17 2.01 1.04
1966 30 5 0 0 0 4 1 -- -- .800 229 58.1 49 6 14 0 1 40 0 0 18 18 2.79 1.08
1967 4 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 29 5.1 14 1 1 0 0 4 0 0 6 6 10.80 2.81
1968 西鉄 42 31 1 1 0 7 14 -- -- .333 700 168.2 151 20 54 1 5 121 3 0 65 54 2.88 1.22
1969 40 30 7 3 0 8 15 -- -- .348 787 188.1 171 21 60 1 8 113 3 0 86 68 3.26 1.23
1970 3 3 0 0 0 0 1 -- -- .000 55 14.1 10 4 3 0 0 5 0 0 6 5 3.21 0.91
通算:9年 170 77 8 4 0 25 33 -- -- .431 2302 556.2 499 61 174 4 16 361 8 3 229 190 3.07 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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背番号

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  • 63 (1962年)
  • 17 (1963年 - 1967年)
  • 15 (1968年 - 1970年)

脚注

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  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目

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