益田就固
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長8年(1603年) |
死没 | 天和元年10月4日(1682年11月3日) |
別名 | 通称:才八、修理、孫左衛門 |
主君 | 毛利輝元→秀就→綱広 |
氏族 | 藤原北家道兼流御神本氏族益田氏 |
父母 | 父:益田景祥、母:児玉元良女 |
兄弟 |
就固、就貫、女(益田元堯室)、 女(阿曽沼就春室)、女(児玉就信室)、 女(清水就信室)他 |
妻 | 正室:井原元以女、再室:岡元誠女、許嫁佐世元嘉女 |
子 |
就実、女(佐世就説室) 養子:就貫、就高 |
益田 就固(ますだ なりかた、慶長8年(1603年) - 天和元年10月4日(1682年11月3日))は、江戸時代前期の長州藩毛利家重臣。寄組問田益田家2代。
父は益田景祥。母は児玉元良の娘で、毛利秀就の生母清泰院(二の丸殿)の妹。
生涯
[編集]慶長8年(1603年)、益田景祥の嫡男として生まれる。生母が児玉元良の娘であったため、藩主毛利秀就の外従兄弟にあたる。秀就から偏諱を与えられ初め就利、のちに就固と名のる。父の景祥から家督を継ぎ、藩の要職に就いて藩政の枢機に関わった。将軍が徳川家光から家綱に代替りした時、毛利家の御判物を認めてもらうために堅田就政、口羽元智とともに当時の老中松平信綱のもとに持参している。
正保元年(1644年)、自身の給領地である周防国吉敷郡問田に浄土宗「光勝院」(現在は光巌寺)を創建する。
天和元年(1682年)死去、享年80。家督は甥で養嗣子の就高が継いだ。
参考文献
[編集]- 『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店
- 『地方別・日本の名族 9 中国編』新人物往来社