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益田元固

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
益田 元固
生誕 1811年文化8年)
死没 1875年明治8年)6月25日
別名 兼将、通称:伊豆、七内、幼名:篤之進、:幽岳
官位 正四位
主君 毛利斉熙毛利斉元毛利斉広毛利敬親毛利元徳
長州藩
氏族 益田氏(問田益田家)
父母 父:益田親愛(親賢) 母:毛利就貞の娘
兄弟 毛利房謙室、毛利房顕室、毛利房嘉
毛利就任の娘山内就資の娘
孫槌三吉周亮口羽良介山内通遠室、山内通恂
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益田 元固(ますだ もとかた、文化8年(1811年) - 明治8年(1875年6月25日)は、江戸時代末期長州藩重臣で、寄組問田益田家(4096石)の7代。

父は益田親愛(親賢)[1]。母は毛利就貞の娘[1]。妻は毛利就任の娘、山内就資の娘[1]。子に益田孫槌三吉周亮口羽良介山内通遠室、山内通恂室がいる[1][2]。兄弟には毛利房謙室、毛利房顕室、毛利房嘉室がいる[1]

長州藩第11代藩主の毛利斉元より偏諱を受けて元固と名乗る。また初名に兼将が伝わる[1]通称は伊豆、七内で「益田伊豆」、「益田七内」とも称す[2][3]は幽岳。

生涯

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文化8年(1811年)に長州藩重臣益田親愛(親賢)の嫡男として生まれる[1]

天保2年(1831年)、給領地の周防国吉敷郡問田に、陪臣や庶民のための郷校である学習斎を設立した[4]

嘉永3年(1850年8月25日老中(家老)となり、当役を勤め[5]、嘉永6年(1853年)9月、江戸留守居役となり、藩主の毛利慶親に従い江戸と国元を往来する[2] [3][6]。翌安政元年(1854年)3月に江戸に行き、9月藩世子毛利広封の附役を兼勤し、安政2年(1855年)10月に帰国した。文久元年(1861年)2月、大頭役となったが、8月病気のため辞職[6]。文久3年(1864年)3月、出府を命ぜられ、京摂の間に滞在して動静を検察した[6]

慶応2年(1866年)の第二次長州征討の際には芸州口で幕府軍と戦う[2][6]

明治3年(1870年)における廃藩直前の問田益田家の陪臣の家臣団は、家老(3家)、家士上等(14家)、家士中等(12家)、家士下等(57家)、小組(30家)の116家が存在していた[7]

明治維新後は玉江の別邸に隠退し、明治8年(1875年)6月25日に死去した[2][6]。享年65[2][6]

なお、長府藩次席家老で明治維新後に新川県参事鳥取県県令などを務めた三吉周亮は実子(四男)[2]である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 田村哲夫 著 『近世防長諸家系図綜覧』(マツノ書店 1980年) より
  2. ^ a b c d e f g 吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年) より
  3. ^ a b 石川卓美 著 『防長歴史用語辞典』(マツノ書店 1986年) より
  4. ^ 山口県教育会 著 『山口県百科事典』(大和書房 1982年) より
  5. ^ 嘉永4年(1851年10月8日まで
  6. ^ a b c d e f 日本歴史学会 編 『明治維新人名辞典』 (吉川弘文館 1981年) より
  7. ^ 『益田孫槌家来給禄帳』(山口県文書館) より

参考文献

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  • 吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年)
  • 田村哲夫 著 『近世防長諸家系図綜覧』(マツノ書店 1980年)
  • 石川卓美 著 『防長歴史用語辞典』(マツノ書店 1986年)
  • 『益田孫槌家来給禄帳』(山口県文書館
  • 日本歴史学会 編 『明治維新人名辞典』 (吉川弘文館 1981年)