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皇甫抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇甫抗
各種表記
ハングル 황보항
漢字 皇甫抗
発音: ファンボ・ハン
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皇甫 抗(ファンボ・ハン、朝鮮語: 황보항生没年不詳)は、高麗文人、官僚。江左七賢(朝鮮における竹林の七賢)の一人[1]

本貫永川皇甫氏若水(ヤクス、약수)。

主要事項

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生年は不詳である。1176年に科挙に合格し[2]、その後忠州(現: 忠清北道忠州市)で書記を務めた[3]。特に林椿朝鮮語版との交流が深く[4]、皇甫抗が科挙に合格すると林椿に祝われ、林椿が病床に伏した際は皇甫抗が見舞いに訪れた[5]。林椿は皇甫抗を「学識が広く意味は変わらず記憶力が強く文章が豪放で、正直さは琴の糸のようで清廉さは甲の中の鏡のようだった」と評価した[6]。また、「補閑集」にも詩一首が伝えられ[7]、楽章にも長けていたとされる[8]。そのほか、李仁老呉世才咸淳李湛之、そして趙通らと付き合い、詩作と酒を嗜んだ。没年は不詳である。

参考資料

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  • 『高麗史』
  • 『西河集』
  • 『補閑集』
  • 『東国李相国集』

脚注

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  1. ^ 『고려사』 권102, 「열전」15, 이규보; 이규보, 『동국이상국집』, 「전집」21, 칠현설(七賢說)
  2. ^ 『고려사』 권74, 「지」28, [선거2], 과목2, 승보시, 명종 6년(1176) 10월
  3. ^ 임춘, 『서하집』 권3, 제공(諸公)들은 중원(中原: 현 충청북도 충주시)의 서기로 임명된 황보약수를 전별했으나 나는 병을 앓고 있어서 가보지 못했으므로 시를 지어 보냄[諸公餞皇甫若水赴中原書記。僕以病不往。作詩寄之。] 및 권5, 송황보항부충주서(送皇甫沆赴忠州序) 참조.
  4. ^ 임춘, 『서하집』 권2, 하황보항급제 2수(賀皇甫沆及第 二首) 참조.
  5. ^ 임춘, 『서하집』 권4, 여조역락서(與趙亦樂書)
  6. ^ 임춘, 『서하집』 권5, 송황보항부충주서(送皇甫沆赴忠州序)
  7. ^ 『보한집』 권 중
  8. ^ 임춘, 『서하집』 권4, 여황보약수서(與皇甫若水書)