畑仙齢
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畑 仙齢(はた せんれい、慶応元年4月15日(1865年5月9日[1])[2] - 昭和4年(1929年)3月30日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。
略歴
[編集]慶応元年(1865年)4月15日に畑在周の長男として京都に生まれた。本名は経長。字は子益。半象外史とも号す。父は有職故実に長けており幼時からその薫陶を受けた。始めは岸竹堂に師事し、神山鳳陽の塾で詩経を学んだ。後に鈴木百年に師事、日本美術協会の展覧会などに作品を出品して入選を重ねた。鈴木松年、今尾景年、久保田米僊と並んで百年門下の四天王と称された。
明治24年(1891年)に百年とともに上京し、平福穂庵追善伝利画会のため、菅原白龍とともに秋田へ行った。その帰途12月の暮れに東京池之端に滞在した折、師の百年が客死した。これを機に仙齢は京都へは戻らず、東京の麹町に居を定め、半蔵門外に彩雲堂画塾を開いた。上京後の仙齢は東京在住の青年画家たちと広汎に交流し、明治25年(1892年)の第1回日本青年絵画協会共進会の際には25名の審査員の内の一人に選ばれている。明治29年(1896年)、第1回日本絵画協会共進会の審査員にも選ばれた。明治33年(1900年)のパリ万国博覧会には「水墨山水」を出品するなど東京画壇の中心作家として活躍した。また、富山県立工芸学校図案科の教師として赴任、教頭も務め、明治35年(1902年)の暮れまで教鞭をとった。その後、東京に帰ってから後は専ら日本画会に出品した。明治44年(1911年)には中国を漫遊、昭和4年(1929年)3月30日に東京麹町にて没した。
脚注
[編集]- ^ 和暦・西暦対照表〔1865年1月1日(元治元年12月4日)~1866年12月31日(慶応2年11月25日)〕、2018年8月9日閲覧。
- ^ 『20世紀日本人名事典』による。