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由良具滋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
由良具滋
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 延元2年/建武4年3月6日1337年4月7日
別名 新左衛門
主君 新田義貞
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由良 具滋(ゆら ともしげ)は、南北朝時代南朝方の武将。新左衛門。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。出自は武蔵七党の一つ猪俣党

略歴

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新田義貞の家人として元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉攻めに従軍した。以降、建武2年(1335年)の箱根・竹ノ下の戦い、京都での戦いなど常に義貞に従って各地を転戦した。延元元年(1336年)、白旗城攻めに参加する。同年、義貞は北朝方と戦う拠点を北国に作るため恒良親王尊良親王を奉じて越前金ヶ崎城に入城するも、北朝方の斯波高経らに包囲される(金ヶ崎の戦い)。

翌延元2年/建武4年(1337年)、城内の兵糧が尽きる中、具滋は自身の血を飲み戦死者の肉を啖い、多勢の北朝方を相手に奮戦する。最期は兵50余を率い打って出て激闘の末、長浜顕寛らと共に戦死した。

敦賀市金ヶ崎町の絹掛神社に、 藤原行房 、義貞の子義顕瓜生保里見時成気比氏治気比斉晴 、瓜生義鑑、里見義氏、長浜顕寛、武田与一命らと共に合祀されている。

参考文献

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  • 太平記』(巻十八 金崎城落事)

関連作品

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外部リンク

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