由布惟次
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄元年(1558年) |
死没 | 寛永10年9月14日(1633年10月16日) |
改名 | 熊千代(幼名)、惟次、慶祐(号) |
別名 | 五兵衛、長三郎、壱岐守、七右衛門(通称) |
官位 | 美作守 |
主君 | 立花道雪、宗茂 |
藩 | 陸奥棚倉藩、筑後柳河藩 |
氏族 | 由布氏 |
父母 | 由布惟信、由布惟克娘[1] |
兄弟 | 惟定、惟次、惟紀、田尻宗仙室 |
妻 | 由布碁晨娘 |
子 |
立花惟与室 立花惟与、惟長 |
由布 惟次(ゆふ これつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。立花氏の家臣。馬印は金切裂。
生涯
[編集]永禄元年(1558年)、由布惟信の子として誕生。元亀元年(1570年)に、父や弟と共に立花道雪に従って筑前国に向かう。道雪の譜代家臣の一人として父と共に筑前各地を転戦する。
天正9年(1575年)11月13日、 立花方は大友氏家臣・毛利鎮実の筑前鷹取山城を兵糧運輸する際、その帰路に宗像氏の家臣や杉氏、秋月氏方との小金原の戦い[2]にて、得意の鉄砲を持って敵大将・河津修理進を狙い撃ち、首を得て戦功を挙げたが、この戦で刀や槍によって13ヶ所ものの深傷を受け、感状も受領した[3][4]。その後、足が不自由となり、留守居役として内政奉行に勤めるが、慶長の役でも立花軍の三番隊367兵を率いて、般丹の戦いなどで活躍した[5]。弟・惟紀は朝鮮派兵で戦死した。
文禄5年(1596年)には父・惟信から家督と3,500石の俸禄を継承する[6][7]。さらに慶長4年(1599年)に婿養子・立花惟与が由布氏の家督を継承する[8]。関ヶ原の戦い後、立花家は改易となり一族と共に主君・宗茂に従い浪人となったが、慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて陸奥国棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、父の惟信と共に藩内の行政を担当した。
のち元和6年(1620年)立花家の柳河再封後も、宿老の一人として、惟与と共に各類の文書や内政、外交事務を担当した。家督は婿養子で十時連貞の長子でもある惟与(のちに立花姓)が相続する。
なお、『将士軍談』では由布惟明(大炊介)の次男である由布三五兵衛西雲と父の惟信と混同されているが「柳河藩享保八年藩士系図・上」によれば別家である。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 由布家続の父である由布惟克(加賀守)との関係は不明。
- ^ 清水原の戦いとも。
- ^ 『福岡県史資料. 第9輯』[1]
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (23) 戸次道雪・統虎(宗茂)連署感状写 前之十三於清水原合戦之刻、別而被砕手、分捕高名感悅無極候、殊鑓疵刀疵十三ヶ所被深手候、名誉無他異候、手前能被相勤候故、一身無越度候事珍重候、必配當之砌一稜賀之可申候、恐々謹言、十一月廿四日、由布五兵衛尉殿 慶祐(惟次)事 341頁
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P153
- ^ 『将士軍談』では食禄4500石、城番とある。だが、この石高は誤記となる
- ^ 中野等『立花宗茂』P93
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P162