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田部竜作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田部 竜作
時代 幕末
生誕 天保5年(1834年
死没 文久3年(1863年)7月
別名 田辺竜作[1]
墓所 豊後国直入郡豊岡村円福寺
主君 中川久昭
豊後岡藩
氏族 田部氏
黒川マス
田部純一郎
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田部 竜作(たなべ りゅうさく)は幕末豊後岡藩士。小河一敏田近陽一郎等と倒幕運動に与した。

生涯

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天保5年(1834年)生まれ[2]。幼くして角田九華に入門し、経学を学んだ[3]日向国慈眼寺僧胤康が来訪すると、これにも学んだ[4]。また、王陽明伝習録』を読んで影響を受けた[3]

小河一敏等と交わって勤王派に与し[4]文久2年(1862年)3月18日一敏・田近陽一郎等と京都へ出発し[5]大坂土佐堀薩摩藩邸に滞在し[6]矢野勘三郎が調達した資金の出納を担当し、同志の酒食への浪費を戒めた[4]

4月23日田中河内介等が関白九条尚忠襲撃を企てて上京すると[6]、24日これを追って伏見宿に上ったが、決起グループは寺田屋騒動により鎮圧されていた[4]。この時岡藩主中川久昭江戸から帰藩途中だったため、26日田近陽一郎と桑名宿に赴いたが、面会を許されず[7]、伏見に帰り、京都薩摩藩邸に移った[4]。8月孝明天皇より島津久光を経て叡感状を賜り[8]、帰国した[4]

帰国後謹慎を命じられたが、しばらくして藩論が一転すると解除され、再び上京した[4]文久3年(1863年)3月には勤王の意志を賞され、久昭から金品を賜った[4]。5月朔平門外の変の嫌疑を受けて上京したが、7月発病し、30歳で客死し[4]、豊岡村円福寺境内に葬られた[9]

人物

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住所は竹田代官町[10]。「至誠人に通ず」を座右の銘とし、「至誠先生」と呼ばれた[3]黒住教を信仰し、教職を務めた[3]

家族

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  • 妻:マス - 黒川周益妹、黒川健士大伯母[11]
    • 婿養子:田部等 - 田代早苗弟[11]。竜作の死後、マスの婿養子となった[11]。京都護王神社宮司[11]
  • 子:純一郎[11]
    • 嫁:芳枝[11]
    • 孫:美寿丸 - 純一郎長男[11]。母と京都塔之段上片原町390番地・1393番地合地に住んだ[11]

脚注

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参考文献

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