田部竜作
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時代 | 幕末 |
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生誕 | 天保5年(1834年) |
死没 | 文久3年(1863年)7月 |
別名 | 田辺竜作[1] |
墓所 | 豊後国直入郡豊岡村円福寺 |
主君 | 中川久昭 |
藩 | 豊後岡藩 |
氏族 | 田部氏 |
妻 | 黒川マス |
子 | 田部純一郎 |
田部 竜作(たなべ りゅうさく)は幕末の豊後岡藩士。小河一敏・田近陽一郎等と倒幕運動に与した。
生涯
[編集]天保5年(1834年)生まれ[2]。幼くして角田九華に入門し、経学を学んだ[3]。日向国慈眼寺僧胤康が来訪すると、これにも学んだ[4]。また、王陽明『伝習録』を読んで影響を受けた[3]。
小河一敏等と交わって勤王派に与し[4]、文久2年(1862年)3月18日一敏・田近陽一郎等と京都へ出発し[5]、大坂土佐堀薩摩藩邸に滞在し[6]、矢野勘三郎が調達した資金の出納を担当し、同志の酒食への浪費を戒めた[4]。
4月23日田中河内介等が関白九条尚忠襲撃を企てて上京すると[6]、24日これを追って伏見宿に上ったが、決起グループは寺田屋騒動により鎮圧されていた[4]。この時岡藩主中川久昭が江戸から帰藩途中だったため、26日田近陽一郎と桑名宿に赴いたが、面会を許されず[7]、伏見に帰り、京都薩摩藩邸に移った[4]。8月孝明天皇より島津久光を経て叡感状を賜り[8]、帰国した[4]。
帰国後謹慎を命じられたが、しばらくして藩論が一転すると解除され、再び上京した[4]。文久3年(1863年)3月には勤王の意志を賞され、久昭から金品を賜った[4]。5月朔平門外の変の嫌疑を受けて上京したが、7月発病し、30歳で客死し[4]、豊岡村円福寺境内に葬られた[9]。
人物
[編集]住所は竹田代官町[10]。「至誠人に通ず」を座右の銘とし、「至誠先生」と呼ばれた[3]。黒住教を信仰し、教職を務めた[3]。
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ 直入郡教育会 1924, p. 305.
- ^ 竹田中学校 1937, p. 30.
- ^ a b c d 直入郡教育会 1924, p. 309.
- ^ a b c d e f g h i 直入郡教育会 1924, p. 310.
- ^ 直入郡教育会 1924, p. 302.
- ^ a b 直入郡教育会 1924, p. 303.
- ^ 直入郡教育会 1924, p. 324.
- ^ 直入郡教育会 1924, pp. 304–306.
- ^ 竹田町教育会 1940, p. 19.
- ^ 竹田町教育会 1940, p. 18.
- ^ a b c d e f g h 竹田町教育会 1940, p. 45.
参考文献
[編集]- 直入郡教育会『直入郡志』直入郡教育会、1924年2月。NDLJP:972077/182。
- 大分県立竹田中学校『豊後岡藩先哲小伝』大分県立竹田中学校、1937年5月。NDLJP:1095923/19。
- 竹田町教育会『旧岡藩勤王家略伝 (主トシテ義挙ニ参加シタル勤王家)』竹田町教育会、1940年12月。NDLJP:1094352/19。