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胤康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

胤康 (いんこう、文政4年〈1821年〉 - 慶応2年〈1866年〉年5月18日) は、江戸時代後期から末期の禅僧[1]

生涯

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文政4年の春に武蔵国豊島郡赤塚村に生まれた[2]

八歳のとき某家へ養子にやられると聞き、日ごろ可愛がってくれていた赤塚村松月寺の大隣天休という僧のもとに走って弟子となった。

天保5年〈1834年〉天休に従って日向臼杵郡北方村慈眼寺に来た。胤康は儒仏・軍学を修め[3]、勤王の志厚く、嘉永の初め豊後竹田に赴いて岡藩に勤王思想を鼓吹した。

文久元年〈1861年〉天休の跡を継いで慈眼寺住職となった。文久2年島津久光上京の機会に事を挙げんとし、幕府に縁故のある延岡藩[4]に朝廷に応じるよう説いたことから文久3年3月11日に捕らえられ、延岡藩の牢にいること3年、京都町奉行所に護送されて獄死した。

さとらばや わしの山寺 今ここに 空にひとしき 道としらずや — 辞世の句

脚注

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  1. ^ 僧胤康供養碑(そういんこうくようひ) | 五ヶ瀬川大瀬川 距離標かわまち周辺情報”. www.qsr.mlit.go.jp. 2022年9月9日閲覧。
  2. ^ 胤康の父は篠崎郷右衛門あるいは北条金兵衛(北条氏康の子孫という)
  3. ^ 山鹿流を延岡藩士の山本半蔵に学んでいる。
  4. ^ 井伊直弼の異母弟の内藤政義が延岡藩主

参考文献

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  • 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年9月。ISBN 4642031146 
  • 若山甲蔵、徳永孝一 意訳『胤康和尚』鉱脈社、2016年4月。ISBN 978-4-86061-619-9 

関連項目

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外部リンク

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