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田近儀左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田近儀左衛門
時代 幕末
死没 明治2年11月10日1869年12月12日
改名 田近宗太郎、儀左衛門
別名 田近長吉
主君 中川久教久昭久成
豊後岡藩
氏族 田近氏
父母 田近八十馬
中川左京娘
田近陽一郎
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田近 儀左衛門(たぢか ぎざえもん)は幕末豊後岡藩士。小河一敏等と共に倒幕を唱えた。

生涯

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幼名は宗太郎[1]文化11年(1814年)6月家督を相続し、300石を継いで扈従先手物頭となり[2]用人近習物頭に進んだ[1]天保5年(1834年)野殿宗右衛門と交代で大坂に赴任し、同地留守居役を勤めた[3]。総奉行柳井藻次郎の下で小河一敏と共に元締役として藩政改革を行ったが、天保11年(1840年)藩主中川久教が死去すると後ろ盾を失い[4]七人衆の変により弾圧された[1]

嘉永4年(1851年)4月奉行職に就き[2]、嘉永6年(1853年)江戸に赴任した[5]安政3年(1856年)6月年寄役・月番役となり、城代を兼ね、勤続5年により700石に加増された[2]

文久2年(1862年)3月15日小河一敏薩摩藩士と倒幕を盟約して帰国すると[1]、中川土佐・中川伝次郎・小河六郎左衛門・桂左仲・志水左兵衛・中川涛太郎・瓦林重蔵等とこれに賛同し[6]、倒幕派代表として岡城に登城して藩兵の上京を主張し[2]、18日小河一敏・子の田近陽一郎等を送り出し、活動資金100両を送金した[7]

寺田屋騒動により倒幕計画が頓挫した後、9月5日陽一郎等が帰国すると[8]、13日隠居一己慎を命じられ[9]、陽一郎に家督を譲った[10]。後に許され、文久3年(1863年)3月休息料5人扶持を与えられたが[2]、この頃大病により病臥している[10]慶応4年(1868年)2人扶持を加増された[2]

明治2年(1869年)9月新藩主中川久成の傅役を命じられ[2]、11月10日久成が江戸から帰国するに当たり、城で出迎えるため正装し、供回りの用意を待ちながら刀箪笥から刀を取り出そうとしたところ、発病して息を引き取った[9]

先祖

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  1. 田近新左衛門長許 - 慶長5年(1600年)10月佐賀関の戦いで戦死した中川長祐の孫玄蕃長房の五男[11]元禄元年(1688年)竹田殿町に移り、中川久恒に仕えた[11]
  2. 田近舎人房豊[11]
  3. 田近長尭[11]
  4. 田近新左衛門房英[11]
  5. 田近八十馬長英[11]
  6. 田近儀左衛門長吉

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d 大河原 1917, p. 31.
  2. ^ a b c d e f g 直入郡教育会 1924, p. 309.
  3. ^ 泉 2000, p. 99.
  4. ^ 直入郡教育会 1924, p. 299.
  5. ^ 大河原 1925, p. 14.
  6. ^ 大河原 1917, pp. 32.
  7. ^ 大河原 1917, pp. 32–33.
  8. ^ 大河原 1917, p. 8.
  9. ^ a b 大河原 1917, p. 33.
  10. ^ a b 取調書.
  11. ^ a b c d e f g h i 大河原 1917, p. 田近翁の家系.

参考文献

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  • 「田近陽一郎効績取調書」『大演習地関係地方 贈位内申事蹟書』 第2輯、大分県、1916年。M0000000000000818252 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。 
  • 大河原徳蔵『田近陽一郎』大河原徳蔵、1917年4月。NDLJP:945135 
  • 大河原徳蔵『田近陽一郎』(再版)田近十三、1925年11月。NDLJP:945136 
  • 直入郡教育会『直入郡志』直入郡教育会、1924年2月。NDLJP:972077/182 
  • 泉正人「≪史料紹介≫岡山藩池田文庫 翻刻『天保五年廻状留』」『早稲田大学図書館紀要』第47号、早稲田大学図書館、2000年3月、49-119頁、ISSN 02892502NAID 120006349606