田川鳳朗
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田川 鳳朗(たがわ ほうろう、宝暦12年(1762年) - 弘化2年11月28日(1845年12月26日)[1])は、江戸時代の俳人。本名、厳島義長。通称、東源。初号は京陵[1]。対竹、鶯笠、自然堂、藍蓼庵などと号した[1]。桜井梅室・成田蒼虬とともに天保三大家の一人に数えられた[1]。
生涯
[編集]宝暦12年(1762年)、肥後国(現・熊本県)で生まれる。12歳頃に俳諧を志し[1]、父の鼎石や武久綺石の指導を受け[1]、蝶夢や久村暁台にも拝謁したという[1]。1798年(寛政10年)熊本藩士を致仕し[1]、各地を遊歴した。1816年(文化13年)江戸に庵を結び[1]、小林一茶の庇護者であった夏目成美[2]や鈴木道彦と親しく交わった[1]。翌年『芭蕉葉ぶね』を刊行して、真正芭蕉風を唱えた[1]。1819年(文政2年)江戸有数の俳諧宗匠となる[1]。1828年(文政11年)大坂の鶴峯戊申に従学した後[1]、天保初期に江戸に帰った[1]。1844年(天保14年)芭蕉百五十年忌に際して、二条家が芭蕉に「花下大明神」の神明を授与するように尽力し[1]、自らも「花下翁」の称号を授けられた[1]。
編著
[編集]- 『芭蕉葉ふね』(文化8年刊)
- 『蕉門俳譜師説録』(文政8年序、文久2年刊)
- 『自然堂千句』(天保6年刊)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、443頁。
- ^ 金田 房子, 玉城 司 編『鳳朗と一茶、 その時代 ― 近世後期俳諧と地域文化』(新典社、2021)