鈴木道彦 (俳人)
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鈴木 道彦(すずき みちひこ、1757年(宝暦7年)- 1819年10月24日(文政2年9月6日)[1])は、江戸時代後期の俳人である。名は由之[1]。別号に金令、金令舎、十時庵、藤垣庵等がある[1]。
経歴・人物
[編集]陸奥の仙台生まれ[1]。医師の家系に生まれ、道彦も医師となった[1]。若くして俳諧を学び[1]、1772年(安永2年)から東北を行脚していた加舎白雄と縁を持つ[1]。白雄から文通による指導を受けていたとされ[1]、句の所見は、白雄の『春秋稿』(1784年(天明4年))である[1]。白雄の死後、江戸に上り、白雄三回忌集『冬瓜汁』の跋文を記した[1]。
白雄の死後の春秋庵は常世田長翠が継いだものの、道彦に不満を抱いて倉田葛三に春秋庵を譲り[1]、その葛三も鴫立庵に入った[1]。白雄の高弟の建部巣兆は脱俗的であったため、結局は道彦が白雄門の中心となった[1]。建部巣兆や夏目成美、井上士朗らと親交を持った[1]。成美と士郎、道彦をあわせて「寛政三大家」と称された[1]。没後、金令舎は妻の応々尼が守った[1]。
道彦の作風は洞察力や感性、趣向表現に優れており[1]、また連句の名人でもあり[1]、俳文も優れていた[1]。著書『無孔笛』において、与謝蕪村らの天明期の代表的な俳人(天明の七名家)を批判したことも有名である[1]。しかし、晩年には白川芝山が著した著書により、その作風は逆に批判された[要出典]。
主な著作物
[編集]主著
[編集]その他の著書
[編集]- 『鳶眼集』
- 『鶴芝』
※主著は『道彦七部集』(没後の1830年(文政13年)に刊行。妻が編纂)に収録されている[1]。
脚注
[編集]出典
[編集]関連書籍
[編集]- 矢羽勝幸『俳人鈴木道彦の生涯と作品』ブイツーソリューション、2014年